能登“孤立集落”で助かったはずが…5日後に死亡 厳しい避難生活と能登を離れる“ためらい”の中で
Aさんによると、地震発生から3日後、ようやく自衛隊が隣町の珠洲市・大谷町に到着。自衛隊員らが歩いて食料などの支援物資を運んでくれるようになり、希望が見えた。自衛隊員の手で生き埋めになった人の救助も徐々に始まったという。 その中、気になっていたのが義母の体調。足にケガをしていたので、Aさんは電話で「足大丈夫?病院行ったら」と声をかけたという。しかし義母は「私は大丈夫。もっと大変な人たちのためにやってもらいたい」としか言わなかった。 当時の様子をAさんは「道が通れないっていうことと、生き埋めになっている人もいて、地元を離れるっていうのはその場所を捨てるっていうのか、みんなに対して自分だけという躊躇をしていたのだと思います」と振り返った。 翌1月5日、生き埋めになっている人がほとんど救出されたタイミングで義母はようやく病院に行く決断をした。隣の大谷町まで移動し自衛隊によって、6日午後、珠洲市街地の大きな病院に搬送された。 ■「骨折しているけど受け入れられない」直面した被災地の医療現場 病院で義母は膝の骨折と診断された。骨が陥没するくらいの骨折だった。しかし、病院からは「骨折はしているのだけれど、もう受け入れられないから、一度帰ってほしい」と告げられた。 72歳の義母の身を案じ一緒に被災した親族が、なんとか入院させてもらえないかと相談すると「石川県内では受け入れられる病院がない。他の県、長野県や愛知・名古屋なら搬送先が見つかるかもしれない」と言われ、「どこでもいいから搬送してください」とお願いしたのだという。 入院はできないものの搬送先が見つかるまで病院内にとどまることになった義母。Aさんも当時義母が病院のどこにいたのか把握できていないという。 その知らせは突然だった。病院到着の翌7日午後、現地にいる親族から「義母が急変した」と連絡がきた。病院内で、脈拍がなく心臓が止まりかけている状態で医師に発見されたのだ。義母はエコノミークラス症候群となり、肺の血管に血の固まりが詰まる「肺血栓塞栓症」を発症していた。緊急手術が必要だった。しかし、この病院では環境が整っておらず、なんとか薬の投与でしのぎながら、別の病院への搬送先を探したという。男性は「できることもないので祈るしかなかった」。しかし午後3時ごろ親族からの電話は「ダメだった…」。義母の死亡が確認された。この日の朝、義母が電話の先で「すごい眠い眠い」と話していたのがAさんにとって「最後の会話」となった。このときは「なんかほっとしたのかな」と感じたという。 ■好きなコーヒーを準備したのに…