能登“孤立集落”で助かったはずが…5日後に死亡 厳しい避難生活と能登を離れる“ためらい”の中で
能登半島地震発生の翌日、東京にいた私が電話で取材した女性がいる。震度6強を観測した石川・珠洲市の中で、当時、孤立集落となっていた仁江町で被災した72歳の女性だ。道路の寸断で現地取材に入れない中、孤立集落の厳しい現状を伝えてくださったが、この5日後、エコノミークラス症候群を発症し、女性は死亡した。災害関連死とみられている。そこには孤立集落での厳しい避難生活や地元を離れることへのためらい、そして被災地での医療の厳しい現状があったという。女性に何があったのか、東京から連絡を取り続けていた義理の息子Aさんに話を伺った。(日本テレビ 日高水樹) ■30畳ほどの集会所に約60人 座りっぱなしの避難生活 1月1日午後4時すぎ。石川県能登地方で最大震度7を観測する地震が発生した。 Aさんの妻の実家は日本海に面した珠洲市仁江町にあり、そこには72歳の女性(以下、義母)が一人暮らしをしていた。その日のうちに電話がつながり安否は確認できたものの、義母から伝えられたのは厳しい被災地の状況だった。 ほとんどの家が倒壊。仁江町では11人が生き埋めとなり、地区の人たちだけで救助活動を行っていたが、救助は進まなかった。義母の家も半壊状態で到底住める状態にはなかった。土砂崩れで市街地につながる国道249号も、高いところに逃げられる唯一の山道も寸断され、孤立状態に。大津波警報が出ている中、海から目と鼻の先にある「仁江集会所」に義母や地区の人たちは集まった。集会所の広さは20~30畳ほどで、そこに約60人が身を寄せ合っていたという。また義母は足にケガをしていた。 義母は集会所でずっと座っていたという。Aさんはこう話した。「1週間、ずっと座っていたみたいです。足が痛くて唯一できる姿勢が座っている状態で、狭いスペースだったのもあって周りに遠慮して座っていたと思うんです」 義母の過酷な状況を聞いたAさん。地震発生の翌日、2日に「この状況を伝えたい」と日本テレビに連絡をしてくれた。 当時、仁江町には取材に入れる状況ではなく、私は連絡先を伺いAさんの義母に電話取材させていただいた。集会所には発電機があり、携帯電話の充電ができること、義母の身にただちに危険が迫っていないことなどを確認した上で、話を伺った。電話口の義母は元気な様子でハキハキと答えてくださったが、語られるのは「孤立状態が続く中、お正月に用意していたおせち料理を持ち寄るなどしてしのいでいる」といったギリギリの避難生活だった。断水も起きた状況で、水も十分には取れなかったという。 義母「ほとんどの家が倒れて屋根は全部ダメです。もう使い物にならない感じで。半壊状態もありますから」「(近所で)11人埋まってそのうち3人助けられたのですけど、まだ土の中というか」記者「救助はどうなっていますか?」義母「今消防の方をいれてみんなで作業しているけど、まだ重機が全然来られないので大変です。車が通行できない」記者「車が通行できないのですか?」義母「土砂崩れがあります。次の集落も生き埋めの人もおるし」 孤立集落の切実な声としてこの日、夜のニュースで全国にご紹介した。 ■発生から3日後 自衛隊が到着するも病院に行く決断できず