鎌倉幕府2代執権、北条義時の最大の危機、承久の乱に勝利できた意外な理由
■ リーダーの「傾聴力」 上皇の不穏な動きが鎌倉に伝えられたのが、承久3年の5月19日。同日、義時の姉・政子による御家人を前にした有名な演説(頼朝様の御恩は山より高く、海より深いもの。敵を討ち取って、3代の将軍の遺した鎌倉を守れ)が行なわれます(実際には、政子の言葉を御家人・安達景盛が代読)。政子の言葉に参集した御家人らは奮い立ちました。 その後、義時の屋敷には、時房・泰時・大江広元・三浦義村・安達景盛らが参集。対策会議が開催されます。官軍を関東に迎え撃つべしとの見解が最初、主流だったようです。 ところが大江広元が「迎撃は長期間となりましょう。それでは、味方の武士に厭戦気分が蔓延し、敗北する要因となってしまいます。ここは、運を天に任せ、早く軍勢を都へ向けて進発させるべきです」と提案。この会議の後、義時は姉・政子のもとを訪ね、意見を聞いています。政子もまた「京都に軍勢を派遣しなければ、官軍を破ることはできない。速やかに上洛すべき」と広元と同意見でした(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。これにより、義時もついに軍勢を西国に進発させることを決意するのです。 この時の義時の行動を見ていると、自らが強く何かを主張し、主導していくといったことはありません。幕府首脳部の意見を聞き、それを集約した上で、決断そして実行に移しています。幕府は大軍を派遣し、ついに官軍を破り、承久の乱に勝利したことは周知の事実です。義時らの決断は、成功したと言えるでしょう。 一昔前までは、リーダーと言うと「俺についてこい」というような感じで、グイグイ引っ張っていくイメージがありました。が、最近では、リーダーの「傾聴力」という言葉があるように「部下一人ひとりの状況や考えを正確に把握する必要」「傾聴力を発揮して顧客理解を深め、良いリレーションが構築」することが叫ばれています(「リーダーに必要なのは傾聴力。高める方法や注意したい行動とは」『ニッポンハムミライヘルスLab』)。 承久の乱の最中に、義時の屋敷に落雷があって、下男が死亡した時も、義時は大江広元を招き、意見を聞いています。義時は「落雷は、官軍を討つため、泰時らを派遣したからではないか。運命が縮まる前兆ではないか」と恐れますが、広元はそれを否定。陰陽師にも占いをさせますが「最吉」との結果が出ます。『吾妻鏡』のこの逸話を見るに、義時の当時の緊張感は凄まじいものがあったと推測されます。
濱田 浩一郎