那覇の街が燃えた... 14歳の少女が逃げ惑い、見た光景 沖縄戦の始まり 10・10空襲から80年
1944年10月10日の朝、片岡千代さん(94)=旧姓・長嶺=が沖縄県那覇市久茂地町(当時)にあった自宅を出るときだった。市松山にあった県立第二高等女学校の2年生で当時14歳。市垣花町での高射砲陣地づくりの奉仕作業と学校での授業は日替わりで、10日は作業日だった。戦時体制で携帯が求められていた救急袋と頭巾を手にしたとき、空襲警報と同時に爆音が聞こえてきた。 【写真】カフェや映画館、百貨店も 観光客でにぎわう国際通りや空港がある那覇の街が燃え尽きた80年前 午前6時40分、米軍機が那覇市の上空に到達した。市は午前7時に空襲警報を発令し、サイレンや半鐘が街に鳴り響いた。第1次空襲は午前8時20分まで続き、米軍機延べ240機が小禄、読谷、嘉手納、伊江島の各飛行場を攻撃した。 空襲の合間、両親と千代さん、幼い妹2人と末の弟は真和志村古島(現那覇市)の親類宅を目指した。片岡さんの兄は滋賀県の青年学校に行き、10歳の弟は宮崎県に疎開していた。 崇元寺通りは逃げ惑う人々が右往左往していた。近隣の壕はすでに満員状態。手を引く妹2人は歩き疲れて泣いた。片岡さんは親類宅の様子を確認しようと、妹2人を母に預けて先を急いだ。親類宅は無事だった。 10・10空襲で、米軍は5次にわたる攻撃の当初、港湾など軍事施設を集中的に狙い、やがて民家や学校なども無差別に攻撃した。 千代さんが家族の下に戻ろうとしたとき、真和志村真嘉比の高台で足が止まった。海に面する那覇の街は炎で包まれ、空まで赤く染まっていた。「お母さんやきょうだいは…。明日からどうすれば」 空襲はやまず、那覇の街に火柱が上がり、地面が震えた。負傷した人から崇元寺付近が狙われていると聞き、ぼうぜんとした。 ・・・・・・ 1944年10月10日、沖縄県の那覇市を中心に沖縄本島や周辺離島、先島、奄美など南西諸島全域が米軍による無差別攻撃を受けた「10・10空襲」から10日で80年になった。延べ1396機の米軍機が長時間にわたって爆弾や焼夷弾などを投下し、県民の暮らしや営みを徹底的に破壊した。民間人を含め少なくとも668人が死亡、768人が負傷した。沖縄戦の始まりとされる10・10空襲で、県民は戦争の恐ろしさを目の当たりにした。
琉球新報社