「いらっしゃいませ」すら言えなかった接客下手の女性 がんに倒れた父から、日本に2軒しかない「江戸風鈴」の店舗を託されて
◆作ったものを「売る」の部分が頭になかった
----いざ社員として入ってみて、お手伝いをしていたころと違った点はありましたか? 入社を前提として大学4年のゴールデンウィークには、大阪に実演販売に行ったりしました。 分かったのは、風鈴を作るだけではなくて、売らないといけないということ。 今まで自分の頭になかった部分でした。 作るだけなら、一人で黙々と作業していればいい。 でも、売るとなれば、知らない人に対して「いらっしゃいませ」から、たくさんのコミュニケーションを取らないといけない。 私はまず「いらっしゃいませ」すら言えなかったのです。 接客のアルバイトも経験がなく、最初に大阪に行った時も、自分からお客様に声がかけられないので下を向いてひたすら風鈴に絵を描いていました。 ----苦手な接客は、その後乗り越えられたのでしょうか? 三越や高島屋といった百貨店でよく販売していましたが、当時の私のような経験のない若い子が一人で行くと、周りのベテラン社員の方々が世話を焼いて助けてくれました。 なにしろ私は、包装してくださいと言われても包み方も分からないし、配送伝票って何?というレベルでしたから。 日本橋あたりの百貨店だと、お客様も懐の深い、寛容な感じの方が多いので、こちらも安心してだんだん慣れてきて「いらっしゃいませ」「さようでございますか」といった受け答えもできるようになりました。 そういう場所で販売の経験が積めたことは、運が良かったのだろうなと思います。
◆父の死を乗り越えて
----由香利さんが入社して10年が過ぎたころ、3代目のお父様(裕氏)が肺がんにかかり、会社の体制は大きな変革を迫られます。どのように対応したのでしょうか? 2013年の秋、父の病気が分かった時に、これからどうしていくか、という話を家族でしました。 ガラス吹き担当が1人いなくなるだけでも大変なことなのに、しかもそれが父だと3人いなくなるくらいのダメージです。 でも、すでに注文を受けた分は納めなければいけないので、動揺している場合ではなく、とりあえずやるべきことはやらないと、という状況でした。 ----由香利さんが4代目として会社の顔になることは、その時に決まったのですか? 誰が継ぐというような具体的な話はまったくしていませんでした。 江戸川区伝統工芸会と江戸川伝統工芸振興会には私の名前で入りましたが、父の没後に社長を務めているのは母です。 私は「4代目です」と自ら名乗ったことはなく、周りに「4代目」と言われるので、じゃあそういうことにしておこう……という感じです。 父が亡くなる前、私に「大丈夫そう?」と聞くので、「うーん、やってみないと分かんない」と答えたのを覚えています。 父は「そうだよね」と言っていました。 覚悟や決意というよりは、とりあえずやってみて、だめだったらその時はその時で考えよう、始まりはそんな気持ちでした。