中国が「南京大虐殺、抗日戦争勝利、戦死者追悼」を記念日に制定したワケ
新型コロナによるパンデミックを経験したこの世界では、権威主義的な政治が台頭し、リベラルな政治が後退した。人々が合理的になり、民族やナショナリズム、人種から解放され、グローバルな社会が実現し、社会の多様性や個人化が到来するはずだった時代に、なぜ怒りや敵意が政治の世界で繰り広げられるのか? なぜ「江戸しぐさ」というフェイクが日本の道徳の教科書に掲載されたか 政治学者の吉田徹は、市民を有効に守れない国家の統治能力の脆弱性が白日のもとに晒されたことが原因のひとつだと指摘する。歴史認識問題とテロの脅威が浮上するのも、大戦後に成立した共同体や権力が崩壊しているからだという。 ※本記事は『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』(吉田徹)の抜粋です。
国民国家とは「記憶の共同体」だ
日本のいわゆる「自虐史観」を問題視する立場からは、日中戦争や太平洋戦争は必然だったことが喧伝され、さらに従軍慰安婦の強制連行や旧日本軍の南京大虐殺についての報道や教科書記載が指弾されるようになってから久しい。 こうした歴史修正主義の動きは、韓国や中国からの反発を招き、他方でこれらの国のいわゆる「反日教育」や「反日デモ」が日本の反発を招き、和解不可能な争点へと転化している。政策的な争点が解を見つけ得るのに対し、歴史認識問題はすぐれて価値的な問題であるゆえ、解決は容易ではない。 東アジアの市民社会同士の対立は、国の首脳同士の不仲へとつながっていく。安倍晋三首相が2013年末に靖国神社に参拝したこともあり、3年にわたって日中首脳会談が開催されないという異例の事態を招いた。竹島問題もあって、韓国とは2014年3月まで、約3年半も首脳会談が開催されないままだった。 安倍首相は2018年8月の時点で首相として歴代最多の世界76ヵ国の訪問を果たしたが、中国と韓国への単独訪問は実現することができなかった。 2018年に韓国の大法院(最高裁)が元徴用工への日本企業の賠償を認めたために、翌年には日本が安保問題を絡めて実質的な輸出規制をおこない、今度は韓国側が軍事情報に関する包括的保全協定(GSOMIA)更新を一旦、拒否した。歴史認識問題は、安全保障問題にまで波及するようになったのだ。 小泉純一郎元首相時代を含め、首相や閣僚の靖国参拝が問題になるのはここに太平洋戦争の戦犯、さらに日清、日露戦争の戦没者などが祀られているからだ。尖閣諸島や竹島の帰属問題など、日本と中韓両国の直接的な対立は領土問題のはずだが、こうした領土問題は原因ではなく歴史認識問題の結果に過ぎない。 互いの敵愾心を煽っているのは、過去の歴史についての異なる見解なのだ。 講演「国民とは何か」で有名な19世紀フランスの思想家ルナンは、「国民の本質とは、すべての個人が多くのことを共有していること」と、普仏戦争で帝政ドイツにアルザス゠ロレーヌの割譲を強いられた際に述べている。 そもそも国家という共同体そのものが、さまざまな対立や分裂を内包してきたものであることは、西南戦争、アメリカの南北戦争やフランス革命を思い起こせばよい。しかし、そうした事実を忘却し、互いに共有すべき記憶を担保できるからこそ、国家は完成をみた。 国民国家を指して「想像の共同体」といったのは文化人類学者ベネディクト・アンダーソンだが、これをルナン風に言い換えれば、国民国家とは「記憶の共同体」でもある。 だから共同体にとって、記憶をいかに処理するかは死活問題となる。日本が2013年にサンフランシスコ講和条約を記念した「主権回復の日」の式典を開催し、自らの主権を想起させたかと思えば、翌年にロシアと中国が「ドイツ・ファシズムおよび日本軍国主義への勝利70周年」を記念することで合意した。 2015年には中国が日本を除く先進国首脳と国連事務総長を招いた「中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利70周年記念行事」を開催、自らの体制の歴史的正当性をアピールしたのも、「記憶の共同体」を維持するための当然の行為であった。中国は2014年、南京大虐殺、抗日戦争勝利、戦死者追悼の3つを記念日に制定している。 日本の植民地支配を受けた韓国も2017年に文在寅政権が発足し、翌年に慰安婦被害者をたたえる日を制定することを決め、その後、慰安婦に関する研究所と記念館を作る計画を発表した。存命する韓国の慰安婦は2017年夏の時点で37名を数えるだけだったが、それはすでに共同体全体の記憶になっている。 日本の首相や閣僚の靖国参拝に対する中国や韓国政府による非難を「内政干渉」として退けられるのは、記憶が国境を越えないかぎりにおいてだ。しかし、記憶が本質的に時間や空間を越えるものであるかぎり、歴史認識問題という争点の性質は、それまでのものと大きく異なる。(続く) レビューを確認する 第2回では、そもそも歴史とは何かを考える。吉田によれば、それは事実の集積というより、特定の共同体で集合的に作られていく「フェイク」だ。
Toru Yoshida