7歳だった私、津波で片足失った 「奇跡の少女」語るスマトラ沖地震
スマトラ沖大地震・インド洋津波にのまれながらも、後に生還して「奇跡の少女」と呼ばれ、人々の希望になったインドネシアの女性が初めて来日した。「自分が生きている姿を多くの人に見てほしい」。26日で発生から20年となるのを前に、当時の体験を仙台市内で語った。 【写真】一面がれきの沿岸部=2005年1月、バンダアチェ、中田徹撮影 「震災当時、支援してくださった中には日本の方々もいる。ここで話す機会をいただけて光栄です」。通訳を介して笑顔でそう話したのは、デリサ・フィトリ・ラフマダニさん(27)。 自らがモデルの映画「デリサのお祈り」(2011年)の上映会が20日夜、仙台市青葉区のせんだいメディアテークであり、ゲストとして登壇した。 映画は、インドネシアの作家が05年、デリサさんの物語をつづった小説が元になっている。インドネシアでは、26日が近づくと毎年のようにテレビ放映されている。 デリサさんはスマトラ島北端部にあるアチェ州バンダアチェ市出身。海岸沿いの集落で3きょうだいの末っ子として生まれた。20年前の12月26日は、日曜日だった。学校は休みで、自宅にいた時に突然、家全体が大きく揺れた。やがて大津波が集落を襲い、人々をのみ込んだ。7歳だったデリサさんが発見されたのは翌日。自宅から8キロほど内陸に入った場所だった。 5日後には父親と再会できたが、ともに暮らしていた母と姉、兄は20年経った今でも行方不明だ。デリサさん自身も、津波によるけがで片足を失った。 バンダアチェには地震から数十分後、20メートルを超える津波が海岸線から内陸まで押し寄せ、人口の約3割に相当する6万7千人以上が死亡・行方不明になったとされる。そんな悲惨な状況の中、生存していた「デリサ」の名前は多くのメディアに取り上げられた。家族を失いながらも人生の意味を見い出し、前に進もうとする姿が多くの人を勇気づけた。 仙台市での映画上映会の最中、デリサさんは、涙が止まらなかったという。7歳の時から今日まで乗り越えてきた、たくさんの試練が頭に浮かんだからだ。 今では一人の大人の「デリサ」として生きているが、「何年経っても、悲しみは消えません」。今でも行方が分からない家族を懐かしむ気持ち、支え続けてくれた父への感謝の気持ちもあふれた。 この映画を鑑賞したのは2回目だという。初めて見たときは14、15歳の頃で、そもそも自分のことが本になったことさえ知らなかった。正直、複雑な気持ちが当時はあったが、今では「歴史の瞬間を描き、それを後世に伝えられるもの」として素晴らしい作品だと感じているという。 今回初めて来日し、仙台市に来たのは、京都大学東南アジア地域研究研究所の西芳実准教授の依頼を受けたのがきっかけだった。 インドネシア地域研究が専門の西准教授は8月、バンダアチェ市内にある国立シャクアラ大学の教員や院生とともに、南三陸町などの宮城県沿岸部を視察した。 視察ではたくさんの質問が飛び交った。西准教授は、日本の被災地について知りたいと思う彼らの意欲を感じた。宮城県でも、インドネシアの震災について映画を通して考える機会を作ろうと考え、話を聞いたことがあったデリサさんに来日を依頼したという。 デリサさんは今、バンダアチェ市内にある大手銀行に勤めながら、防災教育イベントなどで自身の被災経験を語り伝える活動をしている。 震災当時のインドネシアでは、人々の津波についての知識が十分でなかったとされる。「当時、防災・減災について知っていたら、自分は今、家族と暮らしていたかもしれない」。そんな思いもにじむ。 この20年でアチェ州の復興は大きく進み、被災地の面影はほぼない。防災教育も向上した一方、まだ十分ではないとも感じる。 「20年が経ち、震災について知らない若い世代が増えていく。映画をはじめ、様々な手段で語り継ぐことで、被災のリスクを減らすことができれば」 彼女の目的はほかにもある。地元ではよく、津波から生き残った人たちがその後憔悴(しょうすい)してしまい、うまく生活が立て直せていないという話を聞く。「津波の生存者である自分の今の姿」を見せ、ほかのサバイバーたちに活力をもたらしたい。そんな思いもあるという。 「同じく生き残った人々に、生活を取り戻してきた私の姿と、今こうやって生きているんだということを伝えていきたい」。彼女の姿は、今でも人々の希望になっている。(阿部育子)
朝日新聞社