4年で戦力外通告、でも「意外とスッと入ってきた」 国立大学から中日の育成選手になった左腕が見た「プロの投手の凄み」
4年間の挑戦が終わった。国立の名古屋大学からプロ野球に進み、中日で育成選手としてプレーした松田亘哲(まつだ・ひろあき)さんが昨年10月に戦力外通告を受けた。「意外とすっと入って来ました」という来季の契約はないとの知らせ。勝負の世界に身を置き「いろんなことを知れたし、いろんな人に出会えた」。現役引退を決断し、この先の人生へと向かう松田さんが痛感した、プロの世界の「レベルの高さ」とは。(共同通信=原嶋優) 【写真】元巨人・桜井、ミキハウスで復帰 「東京ドームが目標」
▽異色のプロ野球選手 中学時代は軟式野球のクラブチームでプレー。3番手ぐらいの投手でレギュラーではなく「野球はもういいかな」と、愛知・江南高校では仲のいい友達とバレーボール部に入部した。当時は身長が大きくなかったこともあり、ポジションはリベロだった。 だが、高校野球を見るなどするうちに野球熱が再燃する。大学では硬式野球を始めることを決め、受験の時期に硬式球でキャッチボールをして入学に備えた。1年秋には球速が140キロに届き、「やるんだったらプロを目指す」と決断した。 「名古屋大で同級生にプロに行きたいと言っても笑われることもなかった。監督も協力的で、周りに支えてもらうことが多かったです」。周囲に恵まれ、努力も実って育成選手での中日入団を勝ち取った。 ▽痛感したプロの壁 中日では同じ世代に神奈川・東海大相模高で夏の甲子園大会優勝投手の小笠原慎之介投手や、慶応大で大学日本代表に選ばれた郡司裕也捕手(現日本ハム)などそうそうたるメンバーがいた。一般入試で国立大に入った松田とは歩んできた道があまりにかけ離れていた。
輝かしい実績を誇る顔ぶれに「負い目というか、この人たちはすごい人、みたいなのはありました」と明かす。「そんなの関係ないと気づけたのはけっこう後」だった。 1年目は左肩を痛めて投げられない時期が長かった。秋に復帰したが「何か定まらなくなって。けがをしたら投げ方が変わっちゃったんですよね」。大学時代には当たり前のように140㌔台中盤の球が投げられたが、ようやく投球を再開すると球速が出なくなっていた。 2年目に2軍公式戦でデビューし、16試合で防御率3・38をマーク。26試合に登板した3年目には球速が140㌔台中盤まで戻ったが、48回で45四死球と制球が安定せず、防御率は7・13と悪化した。真面目に自分に向き合うからこそ、より高く感じるプロの壁。ブルペンでの投球練習中に、迷いから動作を止めてしまったこともあった。 「結果を出さないといけない時に投げられない…」。迷い込んだ暗闇で苦しんだ。