幸村の契約金は7億5000万円? 歴史フォーラムで真田丸秘話
幸村は夏の陣も勝つつもりで戦った
千田教授は真田丸を描いた古地図の検証や科学的地形調査などを総合して、従来とは異なる真田丸の姿を明らかにし、話題を呼ぶ。真田丸は北側を東西に走る自然の谷を利用して築かれたことが判明。谷の幅は200メートルを超えるため大坂城と離れており、城内から援護射撃を受けられない独立した出城だったという。 幸村は徳川方が真田丸の北側に回り込むことも想定。南向きの本郭に加え、北向きの副郭を築く二段構えで必勝を期す。 「幸村は徳川方の側面を突く真田丸を築くことで、真田丸を落とさなければ、徳川方が大坂城を攻略できない状況に追い込んだ。幸村は徳川方の攻撃が真田丸に集中することを覚悟した上で守り、真田丸の勝利を情勢の転換に利用しようとした。幸村は厳しい状況でもあきらめずに、いかに勝つかを考え抜いて、真田丸を築いた」(千田教授) 真田丸の攻防で幸村は圧勝。千田教授は「真田丸の戦略が夏の陣にも受け継がれたのではないか」と指摘する。千田理論によると、道明寺・誉田の戦いでは、古墳群を真田丸のように盾にして徳川軍の分断を狙う。天王寺・岡山の戦いでは、東の岡山と西の茶臼山を拠点に防衛線を張って戦い、機をとらえて真田家伝来の馬出しから出撃。東西から回り込んで家康・秀忠の本陣へ突入する。 戦況が動き、作戦計画が遂行されることはなかった。豊臣方は敗北するものの、豊臣方の連携が機能すれば、勝機があったのではないか。千田教授は「幸村は冬の陣に続き、夏の陣でも勝つつもりで戦ったはずだ」との見解を示した。 基調講演に続き、北川、千田両氏に、元OSK日本歌劇団トップスターの桜花昇ぼるさん、歴史アイドルの小日向えりさんが加わってパネルディスカッションが開かれた。桜花さんが幸村ゆかりの歌を熱唱。小日向さんが「石垣はお城の履歴書。石垣を見れば、お城の成り立ちが分かる」などと話し、北川館長が豊臣石垣公開プロジェクトへの協力を呼び掛けた。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)