80年前の震災の教訓を若い世代へ「一番大事なことは自分の命を守ることです」
先月、日向灘の地震をきっかけに、「南海トラフ地震臨時情報」が初めて出され、巨大地震への注意が呼びかけられました。南海トラフ地震へ向けて、昔の教訓を若い世代に語り継いでいる男性がいます。 それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
いまから80年前の1944年12月7日、午後1時35分。熊野灘沖を震源に発生したマグニチュード7.9の地震、「東南海地震」。東海地方を中心に、地震と津波で1200人以上が犠牲となりました。しかし、戦争を理由に被害はほとんど報道されず、「隠された震災」と呼ばれてきました。 この「隠された震災」の被災地で、何が起きていたのか、語り継いでいる人たちがいます。リーダーを務める、静岡県袋井市で暮らしている藤城一英さんは、1938年生まれの86歳。いまの袋井市の一部の地域では、震度7相当の揺れに見舞われました。 藤城さんは、当時の袋井町立西国民学校の1年生でした。小春日和の昼下がり、午前中で授業が終わった藤城さんは、同級生の友達と木登りをして遊び始めたところへ、ゴーッと激しい揺れが襲います。藤城さんは、あまりの揺れに木から振り落とされて、地面にコロコロと転がりました。 我に返った次の瞬間、我が家がドターンと倒れました。程なく、声を掛け合った近所の方から、気がかりな話を耳にします。 「学校が大変なことになっているらしい……」 藤城さんの小学校では、木造校舎が倒壊、およそ250人が下敷きになっていました。当時は戦時中、先生が大きな音に「空襲」と勘違いして、校舎に留まるように指示を出したところ、校舎が倒れてしまったのです。残念ながら20人の児童が命を落とす結果となりました。 しばらくすると、藤城さんの家の前を、子供たちが押す大八車が通っていきました。 「先生、死なないで、先生、死なないで・・・」 必死に声をかけていたのは、東京・蒲田近くの糀谷から袋井に集団疎開していた4年生の児童たちでした。東京から来た女性の先生も、校舎の下敷きで大ケガを負いましたが、袋井の病院は満床。隣町の見付、いまの磐田市へ、子供たちだけで先生を運んでいたのです。 藤城さんは、何が何だかわからないまま、余震と空襲の日々を送っていきました。 食糧難と復興を経て、昭和から平成になり、東南海地震から50年を迎えた1994年。50代後半になった藤城一英さんは、袋井市の市議会議員を務めていました。そんな折、ある静岡県の職員の方から一つの提案を受けます。 「この50年、お寺の皆さんに地震で亡くなった方の供養は任せっきりになっている。あの時、学校で何があったか? 地震のために生きられなかった人たちの思いを形にして、次へと繋いでいくのが生き残った者、そして議員としての務めではないのか?」