「今の時代に『国のために』というのは意味が全く異なる」…「ボストン1947」カン・ジェギュ監督が描いた“未来につながる過去”
過去を失えば未来は見えなくなる
――監督には1940~50年代を描いた作品が多いですが、なにか意図があるのでしょうか? もちろん今の時代の現実も大切ですが、自分たちが生きてきたここまでの物語も、私は重要だと思うんですね。だって、未来は過去を土台に作られるものだからです。人はともすると「過去=もう過ぎたこと」として関心を持とうとしませんが、過去を失えば未来は見えなくなってしまう。 「過去」「現在」「未来」は便宜上分類されているだけで、実際はひとつづきの線上にある同じものです。現代を生きる人は「過去=前世」であるかのような、自分とは無関係なものと考えているようですが、「過去=未来」と考えれば、過去は決して過去と片付けられないはずです。未来が暗く見えるのは、そのせいもあるような気がします。 ――事実をベースにした本作で、脚色を加えたのはどんな部分でしょうか? 人物のキャラクターに関わる部分では、ユンボクの母親が亡くなった時期ですね。実際はボストン大会に行く2~3年前なのですが、劇中では大会に向けた訓練の最中に亡くなるという脚色にしています。 ボストンマラソンでのユニフォームも、実際はアメリカの星条旗と韓国の太極旗の両方がついていたのですが、劇中では太極旗だけに。また出場に必要な保証金も、実際は米軍政府の体育課長の、周囲への個人的な働きかけでかなりの支援を得たそうですが、劇中では市民が「募金をしよう」と言い出して大々的に広がった形になっています。
今と昔で異なる「国のために」の意識
――映画は五輪やスポーツによる国威発揚が感じられる作品になっていますが、ナチスによるベルリン五輪の政治利用といった前例や、「国のために」という意識が選手への過剰なプレッシャーになる事実もあります。そうした点について監督が思うところを教えてください。 この作品の中ではあまり描いていませんが、実際にソン・ギジョン先生はソ・ユンボク選手に「国のために走りなさい」と何度も言っていたそうです。というのも、当時の彼らは「国」を持たない人間で、言ってみれば宇宙の中で迷子になっているようなものだったんです。そんな状況下で、個人として金メダルを取ることのみで幸せになれるだろうか――ギジョン先生の言葉にはそういう意味があったんです。その当時において、自分たちの国を取り戻すために走ることは価値があったと思います。 でも、今の時代に「国のために」というのは、意味が全く異なりますよね。おそらくそうした国家主義を前面に打ち出し扇動するのは、それによって様々な利益を得る人がいる――つまりは商売になるんだと思います。 もちろん、ある国に属する個人の頑張りと活躍がその国の国威発揚につながるのも大切なこと、大きなことではあると思います。でも、それが主たる目的となってしまうのはとても悲しいことですし、今の時代に「国のために!」という気持ちだけで頑張れる人も、そうはいないかもしれませんよね。
渥美志保(あつみ・しほ) TVドラマ脚本家を経てライターへ。女性誌、男性誌、週刊誌、カルチャー誌など一般誌、企業広報誌などで、映画を中心にカルチャー全般のインタビュー、ライティングを手がける。yahoo! オーサー、mimolle、ELLEデジタル、Gingerなど連載多数。釜山映画祭を20年にわたり現地取材するなど韓国映画、韓国ドラマなどについての寄稿、インタビュー取材なども多数。著書『大人もハマる韓国ドラマ 推しの50本』が発売中。 デイリー新潮編集部
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