八代亜紀さん、急速進行性間質性肺炎で急逝。専属ヘアメイクとして29年間を過ごした大内さんが最期を語る「約束していたエンゼルメイクを施して」
◆最期の最期にキラキラ光る涙を…… 大内 12月に入ってから、検査の数値で引っかかるところが少しずつ出てきてしまいました。でも、スタッフはみな「絶対によくなる」と思ってた。ところがその後、だんだんお話ができない状態になって……。「急速進行性間質性肺炎」という病名がついていたことは後になって知ったのですが。 新田 12月30日に、「緊急な状況だから、すぐに病院に来られますか?」と事務所の方から連絡があり、急いで車で病院へ向かいました。僕は聡子さんを送り届け、自分は車のなかで待つつもりだった。ところが着いたら、「もう危険な状態だから、新田さんも上がってください」と言っていただいて、ご厚意で特別に会うことができました。 病室へ行くと、八代さんを取り囲み、みんなが口々に声をかけている状況だった。それぞれ八代さんへの思いを口にしていて、僕はひたすら感謝の言葉を伝えました。 大内 私も感謝とともに、八代さんに思い出していただきたくて、思い出話を語りかけました。 新田 あのとき、最期の最期に、八代さんが、キラキラ光る涙を一粒だけ流された。僕しか見ていなかったのかもしれないけれど、確かにこぼされた。それは、「ちゃんと声は聞こえているよ」ということなんだろうなと思いました。 大内 私は、息を引き取られてからすぐ、まだ肌にぬくもりのあるうちに、エンゼルメイクをさせていただいたのです。生前からお約束をしていたことなので、私なりの最後のお仕事をしっかりつとめ上げようと臨みました。 看護師さんたちが処置をなさるのと同時進行だったのですが、私のメガネに涙がボタボタと落ちて溜まってしまい、全然はかどらなくて。でも、葬儀社の方が迎えに来る時間が決まっていたから急がなくてはならず、胸が張り裂けそうでした。
新田 29年の間に、付き人さんやマネジャーさんが何人も替わっていくなかで、ヘアメイクのあなたはずっと八代さんと一緒だった。 大内 実は25年ほど前に八代さんと交わした約束があったのですが、当時を知る人間が私しかいなくて。それは何かというと、焼き芋が大好きな八代さんに、「もしも私が死んじゃったら、お棺の中にお芋を入れてね」と言われていたんです。 お茶目な八代さんの冗談だったのかもしれませんが、お約束を果たしたくてスタッフのみなさんに話したら、ぜひ入れましょうと言ってくださり、お顔の近くにお芋を入れることができました。 新田 亡くなった翌日は大晦日。人が集まるのが大好きだった八代さんがきっと望んでいるだろうと、翌日もみんなで集まったよね。いつものように「おはようございます」と声をかけて、手を合わせて、献杯。目の前で起きていることが信じられなくて、不思議な感覚だった。 大内 私も、病気が人の命を奪っていくさまを目の当たりにしたけれど、それを心が受け入れられない状態でした。 新田 マスコミ発表が1月9日。泣いたりするのは八代さんが好まないと思ったので、八代さんとやっていたラジオ番組で、淡々と八代さんの思い出を語りました。これまで「弟分」としてずっとかわいがっていただいて、これから恩返ししていけるかなと思っていたのに。 大内 1月中は、ホントにつらすぎて、私は脱け殻のようでした。今、四十九日も過ぎて、「日にち薬」という言葉もあるように、少しずつ変化してきました。とはいえ、何かにつけて八代さんとの思い出が蘇ってしまって……。 (構成=平林理恵、撮影=藤澤靖子)
大内聡子,新田純一