6年ぶり世界再挑戦失敗の黒田雅之が流した「血の涙」
6ラウンドの終盤に黒田の右ストレートがヒット。王者の足がよろけた。 11ラウンドにも陣営の「GOサイン」でラッシュをかけるムザラネに対して右のカウンターで応戦した。だが、腕をからませて追撃を許さない。 「ぐらついたところで……現実問題。倒れていない。僕の力不足」 “ムザラネワールド”に引き込まれポイントでは圧倒的に不利となっていた。 新田会長も「乱打戦にひきずりこまれることは予想して、巻き込まれない練習をしてきたが、細かいところで横に動かしてくれないし、距離をキープさせてくれなかった。向こうがちょっと上手だった」という。 黒田も状況判断はできていた。 「倒すしかなかった。それで一発狙いのボクシングになった。セコンドからは連打の指示があったが守れなかった」 ガムシャラに前へ。 もういつ試合を止められても不思議ではなかったが、黒田が前へ出続けるからファイトは続行され、最終ラウンドは、もうムザラネも“交通事故”を怖がって安全運転していた。 試合終了のゴングは、ムザラネからのクリンチの体勢で聞いた。 116-112が2人、117-111が1人。完敗だった。 試合後の控え室。黒田の右目は塞がり、左目の上が切れて無残なたんこぶのようになっていた。 「試合が終わったら抜け殻。もう空っぽです」 「ほんとは勝ちたかった。結果がこうなった以上、ここでああだ、こうだ言っても何も変わらない。舞台を作っていただいた方へ申し訳ない」 会見の途中で、黒田の目に涙がたまり、それが傷から漏れる血と混ざって血の涙になった。 苦節6年である。2013年2月にWBA世界フライ級王者、ファン・カルロス・レベコ(アルゼンチン)に挑戦し判定で敗れた。消化不良の負け方だった。その後、再起戦に失敗、日本タイトル挑戦にも2度失敗して、井上尚弥、拳四朗らスパーで拳を交えた後輩たちに追い抜かれていく。都立永山高時代に父を亡くし母と妹と3人の生活。コンビニのアルバイト生活を今でも続けて細々と生計を立ててきた。2年前、彼を初めて取材したとき、挨拶にベルトを2本ぶらさげた名刺を差し出してくれ、不躾ながら練習中に帰ろうとすると、わざわざ練習を中断してジムの玄関まで見送りにきてくれた。誠実で真面目。肉体のメカニズムやメンタルトレーナーに指導を受けてのルーティン作業として試合直前には控室で「あっち向いてホイ」をする話などを熱心にした。四六時中、ボクシングのことだけを考え、その他のことへの興味はない。コンビニとジムの往復生活。「いつまでそんな生活を続けていけるものか」と、母が心配しているというような話をしてくれたのを思い出す。 すべては、この日のために。 「みなさんがどう見たかはわからない。でも、自分なりに出し尽くした感じはある。自分の中では、攻めた、というところは6年前と違うかな」 後楽園を埋め尽くした1910人の大応援団は、幾度となくクロダコールで彼を励ました。川崎フロンターレのサポーターも100人以上駆けつけて、タオルを突き出して、サッカー式の応援で盛り上げてくれた。 「嬉しかったですね。後楽園、聖地で、盛り上がっていただいた。結果はともかく、少しは救いになった」 それこそが黒田が6年間、真摯にボクシングと向かい合った証だった。 「ナイスファイト!」 敗れた黒田に筆者の背中越しに大きな声がした。 世界王者となるにふさわしい技術も才能も黒田には足りなかったのかもしれない。だが、それ以上に大切なものを傷つきながらも黒田は観客に伝えた。ハッピーエンドではなかったが、彼は人生とは何かを後楽園の小さなリングで語ったような気がした。