”故郷の土地と家族を奪った戦争”当時8歳で10.10空襲を体験した男性が証言する理由
沖縄テレビ
10・10空襲は軍事施設だけでなく、民間人も巻き込んだ無差別攻撃で那覇の街は約9割が消失した。1枚の写真は空襲の様子を撮影したもので、黒煙が立ち上っているのが、旧日本海軍が築いた小禄飛行場方面です。 この飛行場近くで空襲を8歳で体験したのが高良光雄さん。 空襲の始まりや、避難壕で過ごした数時間、そして焼ける那覇の街の様子など鮮明な記憶を語った。 高良光雄さん(88歳): 「第一滑走路がこういう具合。第二がここ。瀬長島がここ」 現在の那覇空港の場所にあった大嶺集落の1941年頃を再現したジオラマです。 当時、この集落で暮していた高良光雄さんです。 高良光雄さん(88歳): 「私のおうちはこれです。懐かしいですよ。この当時の面影は。今は行ってもないんですからね、跡形も全然ないんですよ」 高良さんは、この場所で80年前に10・10空襲を経験しました。 現在の那覇空港がある場所は、今から91年前の1933年、旧海軍の小禄飛行場として完成しました。小禄の大嶺集落などの畑を強制接収して作られた飛行場。 軍民共用のための拡張などを経て1941年、南方での旧日本軍の戦況が悪化するにつれさらなる拡張が急ピッチで進められ、大嶺集落の住宅の半分近くが飛行場のために消えました。 高良光雄さん(88歳): 「飛行場拡張の工事が始まって、ここが全部立ち退き、家が全部崩されて」 通っていた小学校も空港の工事に携わる軍属や軍夫の宿舎として使用するため、授業ができなくなりました。 1944年10月10日、朝。高射砲陣地から近い自宅に高良さんはいました。 高良光雄さん(88歳): 「配置につけ!という声が2、3回聞こえたんですね。上を見たら敵の戦闘機2機、白っぽいものと黒っぽいものが見えていた。それから空襲が始まった」 近所に住む叔父の家の防空壕に避難した高良さん、1回目の攻撃が止んだときには空襲で出火した一軒の消火活動にあたり、延焼を防いだものの再び空襲が始まりました。 高良光雄さん(88歳): 「防空壕に入っていて、爆弾とかこちらから迎え撃つ大砲の音が入り乱れて、飛行機の金切り音、ブーンという音を聞いて、怖かったですね」 5次に渡る空襲で、アメリカ軍は日本軍の飛行場や軍艦などを標的にしました。 縦横無尽に爆弾や焼夷弾を投下するアメリカ軍の艦載機は1396機。対する日本の航空戦力は約50機。しかも対応の遅れからほとんどが離陸することなく攻撃されました。 高良光雄さん(88歳): 「爆弾が落ちた時に地震みたいに揺れるんですよ防空壕が」 砂地の地面に作られた防空壕は、爆撃の振動とともに少しずつ崩れました。 高良光雄さん(88歳): 耳をふさいで、座っていて、そのまま砂が流れ続けたら崩れた砂で埋まるとか。そういう心配と空襲の恐ろしさと入り乱れて怖かったです」 およそ9時間に渡る空襲が収まって高良さんが防空壕から出たときに見たのは真っ赤に燃える空でした。 高良光雄さん(88歳): 「那覇を見たら、那覇垣花の上空はもう真っ赤で。夕方ですもう真っ赤で燃えて。そういう状態でした。怖くてもうその時には怖いということしか感じませんでした」 この空襲で高良さんは自宅を失いましたが、家族に被害はありませんでした。 それからおよそ半年後に始まる「ありったけの地獄を集めた」と表現される地上戦。高良さんは家族とともに南部へと逃げました。 高良光雄さん(88歳): 「ケガしている人も見たんだけど、自分たちも、きょうはいいけど明日はこんな目になるかもしれないと助けようと思っても助けるあれが無いんですよ」 追い詰められた人たちは、道に転がった人間の遺体を越えて南へ南へと逃げまどいました。 高良光雄さん(88歳): 「助ける気持ちも起こらない。人間が人間らしくなくなりますよ」 捕虜となり、高良さんは命を繋ぎましたが姉、そして祖母の命は戦争に奪われました。 高良光雄さん(88歳): 「戦争があったから亡くなったのであって、戦争が無ければ亡くならない。戦争というのは二度とやってはいけないと思いますね」 今はもう面影もない故郷の様子。そして自宅を焼かれ家族を奪った80年前の戦争をきのうのことのように覚えています。 高良光雄さん(88歳): 話を聞かせてというような話があれば、わかるだけは自分が体験しただけは話せますよ。今でもきのうおとといのように覚えています。もうあんなの思い出したくもないんですがね。戦争のことを話すから聞くかと、こちらからは話したくない。もう思い出したくない」 高良さんが語るのは人が人で無くなり、大切なものを奪う戦争が2度と起こらぬようにと願う思いからです。
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