【マキ上田連載#4】目黒にあった全女の寮 コーチ役は松永兄弟 回転レシーブと似ていた受け身はすぐに習得
【マキ上田 ビューティ・ペアかけめぐる3年間の軌跡(4)】1975年1月、高校生だった私はオーディションを経て全日本女子プロレスに入団することになりました。特にプロレス好きというわけではなかったのですが、父と全女・松永(高司)社長のちょっとした会話から入門することになり、憧れていた東京での新生活が始まりました。 【写真】コーチ役の松永国松さん 目黒にあった全女事務所の近くに寮があって、ひと部屋は8畳くらいの広さでした。入った時は同い年ぐらいの女の子が4人くらいいたかな。布団を敷いて川の字で寝ていた気がします。毎日練習するだろうからって洋服とか大きな荷物は持っていかなかったので、普段もジャージーで過ごしてましたね。 入門した次の日から早速、練習が始まりました。朝7時くらいに起きて、目黒の町の中をひたすら走ってましたね。道場に着いたら腹筋とか筋トレみたいな体をつくる運動をやってたかな。全部の練習が終わるのは大体夕方の5時。毎日10時間もトレーニングしていたから、疲れて寮に帰ったらバタンキュー。これといって遊びに行くとかそこまでの精神力と体力はありませんでした。 寮にはお風呂がなかったから、みんなで毎日近くの銭湯に行ってました。練習のせいで、みんなの体は青あざだらけ。15歳から17歳くらいの女の子3、4人があざつくってお風呂に入りに来るから銭湯の方も他のお客さんも「この子たちは一体何をしてんだろう?」って驚いた顔をしてました。ご飯は近所のラーメン店さんとかにみんなで行って済ませてたかな。体づくりについて会社からは「もっと筋肉つけなさい」とか言われないから基本ほったらかし。自分たちで好きなものを食べに出歩いてました。 全女って「松永兄弟」でやってたから3番目(高司さん)と4番目(国松さん)がマネジャーみたいな感じで自分たちの練習を見てくれていました。それで4番目が若い時に、ボクシングをやってたから、そういう技術を教えてくれて、5番目(俊国さん)は柔道をやってたから受け身とかの指導を受けました。最初の基本の動きは、この3人に教わりましたね。その後に飛んだり、跳ねたりや技は毎回その時にいた先輩が教えてくれたんじゃなかったかな。 その中でも私は覚えが早い方でした。バレーボールをやっていたから回転レシーブの動きが受け身と似ていたので、すぐに習得。遺伝的に体も柔らかかったので練習で苦労した記憶はないです。なので入門して2か月がたった3月19日にデビュー戦が決まりました。場所は大田区総合体育館。大きい会場ですよね。そこまでお客さん入ってなかったのに何で大きな会場でやったんだろうとは思いますが…。今思うといい会場でデビューしたんだなと(笑い)。
マキ上田