畑山隆則 引退の裏に隠された真実 2階級制覇へ筋書き通りに進んでいった復帰劇…前編
スーパーフェザー級、ライト級で世界2階級制覇を達成したのが畑山隆則(48)だ。世界王座を失い一度は引退するが、2000年6月にライト級で再び世界の頂点を立つ。闘志あふれるファイトに独特の言動で一大旋風を巻き起こすが、そこには「すべてが筋書き通りに進んでいった」と振り返る。強制引退の裏には何があったのか。復帰、前例のない再起戦での世界挑戦、そして坂本博之との激闘。「後楽園ホールのヒーローたち」第10回は引退から22年、一時代を築いた畑山隆則に世界王者時代を語ってもらった。(取材、構成・近藤英一、敬称略) × × × × 現役復帰はオーナーの一声で決まった。1999年の年末、熱海で行われた日本プロボクシング協会総会。横浜光ジムオーナーの宮川和則(2011年5月に心筋梗塞で死去)に同行する形でジムのトレーナーに転身した畑山も参加していた。酒席を交えた1次会が終わり、部屋に戻り仲間だけで2次会をしている時だった。 宮川が何気なく語りかけてきた。 「ハタケ(畑山の愛称)、俺は坂本との試合が見てみたいなぁ」 唐突な言葉に畑山は返す言葉が見つからなかった。ライト級国内NO1の実力と人気を誇る坂本博之(角海老宝石)の名を出し、対戦する意思があるのかを確かめてきたのだ。少しの時間を置き、真意を確かめた。 「えっ、それってカムバックしてもいいんですか?」 「そうだよ。やれよ」 宮川はそれだけ言うと含み笑いしたという。 その半年前だ。WBA世界スーパーフェザー級王者だった畑山は、2度目の防衛戦でラクバ・シン(モンゴル)の挑戦を受け、5回TKO負けした。プロ初黒星でベルトを手放していた。崔龍洙(韓国)から2度目の対戦で王座を奪い、サウル・デュラン(べネズエラ)との初防衛戦は引き分け。そしてシン戦と、世界王座を取ってからの試合は精彩を欠いた。ファイトと比例するように世界戦の会場も空席が目立ち始めていた。原因は明確だった。普段は70キロを超えるウエートからリミットの58・9キロへの減量は限界に達していた。 「デュランの頃から体重が急激に落ちなくなった。ウチのジムは2階にあったんですが、減量中はジムに上がる階段が急で一人では登れませんでした。ジムから階段の下まで2人来てもらい、両脇を抱えてもらい何とかジムにたどり着いていたんです。減量中は1日コップ一杯の水とヨーグルト1個。これじゃ動けません。もういい試合ができないことは自分でも分かっていました」 宮川もシビアだった。これ以上のパフォーマンスは望めないと引導を渡した。 「今のボクシングでは勝ったり、負けたりを繰り返すだけ。みっともない。ジムで面倒を見るからこれからはトレーナーをやってほしい」 畑山にとっては現役に未練を残しながらの強制引退だった。仕方なく、トレーナーとして第2の人生をスタートさせた。 ただ、この引退劇には裏があった。 「オーナーは自分と柳先生(トレーナー)を切り離したがっていたんです。柳先生のボクシングでは世界では勝てないと、限界を感じていたんでしょう。引退させられた時は分からなかったんですが、今になって思うことは、すべてオーナーの描いた筋書き通りに物事が進んでいったということ。すごいことを考えていたんだなぁと、つくづく思います」 トレーナーの柳和龍は素人同然の畑山を世界王者にまで育て上げたが、防衛までは期待できないと宮川は感じていた。「もっとボクシングの幅を広げさせたい」と新たなトレーナーとの再出発を望んだが、畑山が柳とのコンビ解消を簡単に受け入れるとは考えづらい。ならば、一度引退させればコンビも解消できる。この引退劇こそオーナーが描いた「畑山再生計画」の序章だったのだ。 柳トレーナーは名古屋のジムに移籍した。畑山はアジア型から世界基準へのモデルチェンジを図り米国のロスに渡り、今では3階級制覇のWBC世界バンタム級王者・中谷潤人(M・T)ら多くの日本人選手の指導に携わるルディ・エルナンデスと新たにコンビを組み、ライト級での2階級制覇を目指すことになった。 年が明け、渡米前に宮川からまたも雲をつかむような話が飛び込む。 「坂本とセラノ(当時のWBA世界ライト級チャンピンのヒルベルト・セラノ=ベネズエラ)の世界戦が決まったようだ。坂本が勝ってチャンピオンになったら(挑戦は)無理だと思うが、セラノが防衛に成功すれば挑戦するチャンスがあるかもしれない」 畑山は気のない返事をした。それも当然だった。 「何を言っているんだろうと思ったんです。まだ再起もしていなし、ライト級に(階級を)上げて1試合もしてないんですよ。それでいきなり世界戦? こんなのありえない話ですから」 当時、再起戦でいきなり世界挑戦した日本人ボクサーの前例はなかった。荒唐無稽だと取り合わなかった。 渡米したはいいが、外国人選手に囲まれての練習には戸惑った。まず言葉が通じない。自分のぺースで練習できるはずもなくストレスを感じる日の繰り返しだった。1週間が経った時だ。日本から電話が入った。宮川の声は弾んでいた。 「ハタケ、決まったぞ。セラノと試合ができるぞ」 その半月前、セラノに挑戦した坂本は初回に2度のダウンを奪いあと一歩のところまで王者を追い詰めたが、2回に受けた左アッパーが致命傷となり5回TKO負けした。まだ再帰もしていない身ながら世界挑戦を手繰り寄せる強運ぶり。またも筋書き通りにストーリーは進んでいった。が、この時ばかりは喜べなかった。 「えっ、どうするのっていう気持ちだけ。環境、階級…。すべてがゼロから始まったばかりで、何も答えが出ていない状態。もう不安で、不安で…。考えれば考えるほど眠れなくなりました。不眠症になったのはこの時から。不眠症は今でも続いています。図太い性格に見られるんですが、本当は細かいところまで気にする性格なんです」 不安を解消するために「ひたすら練習に打ち込んだ」という。1日15ラウンドのスパーは当たり前。1か月で300ラウンドの実戦練習を積んだ。そして世界挑戦が発表されると、翌日のスポーツ紙に並んだ見出しは「奇跡」「無謀」。前例のないタイトル戦に2階級制覇を疑った。 畑山が宮川と出会ったのは、京浜川崎ジムに所属していた4回戦時代。全日本新人王でMVPを獲得した直後に祝勝会という名目でトレーナーの柳を含め3人で食事をしたことで急接近する。横浜光ジムのオーナーだった宮川は、畑山の外連味のないファイトにジムの壁を越え心酔していた。そんな折、京浜川崎ジムの会長が不祥事でライセンスの資格停止処分を受ける。路頭に迷いかけた畑山に「一緒に世界を目指そう」と救いの手をさしのべ、トレーナーの柳ともに横浜光ジムへの移籍が決定した。この時、宮川は当時としては破格の数千万円の移籍金を京浜川崎側へ支払ったのも事実である。 畑山は再起に向けオーナーの敷いたレールに乗り走り続けた。そしてその先には、ボクサー畑山を全国区へと押し上げる運命的な出会いが待っていた。(続く) ◆畑山 隆則(はたけやま・たかのり)1975年7月28日、青森・青森市生まれ。48歳。中学時代は野球部に所属しエースとして活躍。スポーツ推薦で青森山田高に進学するが、野球部の練習中に先輩部員と対立して1か月で退部。辰吉丈一郎に憧れ、プロボクサーを目指すため高校を中退して単身上京。93年6月にプロデビュー。全日本スーパーフェザー級新人王(大会MVP獲得)、96年3月には東洋太平洋同級王座獲得。98年9月にWBA世界同級王者・崔龍洙(韓国)に2度目の挑戦で判定勝ちし、王座獲得に成功。2000年6月にはWBA世界ライト級王座を獲得して2階級制覇を達成。3度目の防衛に失敗後の2002年1月に引退。戦績は24勝(19KO)2敗3分け。身長173センチの右ボクサーファイター。
報知新聞社