カーター元米大統領の外交政策――低評価の2つの理由とその背景を検証
冷戦下の優先事項と衝突した場合は偽善的
だが、彼らの帰国から程なくして合意は崩れ去った。すると半年後、カーターは側近の反対を押し切ってエジプトとイスラエルを訪問して和平の枠組みを再構築。79年3月26日、両国の平和条約への署名が実現した。 キャンプデービッド合意は、第2次大戦終結以降で最も長続きした外交的成果となった。「彼の中東での成果は、どの歴代大統領もなし得なかった偉業だ」と、カーターに助言していたアベレル・ハリマン米外交官は語る。 【中国の急成長の契機に】 カーターの功績はアジアにも及んだ。72年に中国への扉を開いたのはリチャード・ニクソン大統領だったが、国交正常化によってその扉を実際にくぐったのはカーターだ。 これは必然的な成り行きではなかった。右派の圧力を受けたニクソンとフォードは実現不可能な「二つの中国」を掲げ、台湾との断交と中国の完全な外交承認に踏み切れなかった。それを79年に実現させたのがカーターだった。 カーターが同年、中国の最高指導者・鄧小平をワシントンに招いた後、鄧は私有財産を合法化した。一連の改革開放政策を機に中国は急速な経済成長を果たし、米中関係は現在、善くも悪くもグローバル経済の基盤となっている。 ただし、カーターは在任中は中国国内の弾圧に対して声を上げなかった。名高い人権イニシアチブは一貫して発揮されたわけではなく、冷戦下の優先事項と衝突した際はしばしば偽善的だった。
モスクワ夏季五輪のボイコットは政治的な負担に
カーターが人権問題を初めて前面に押し出したのは76年の大統領選の最中だった。フォード政権は当時、世界各地で起きている人権問題を無視していると非難されており、カーター政権で国務次官補を務めることになる側近のリチャード・ホルブルックが格好の争点になると提案した。 カーターは48年の世界人権宣言を以前から高く評価しており、アメリカの公民権運動を世界的な動きにしようと決意していた。 この外交姿勢が冷戦に与えた影響の重要性は過小評価されている。反体制派の劇作家でチェコスロバキア大統領に就任したバツラフ・ハベルは、カーターの人権重視が刑務所に収監されていた自分を鼓舞し、ソ連圏の「自信」をくじいたと語る。 一方で、カーターは米ソ関係に旧来のハードパワーも用いた。国防費を大幅に増額し、国防総省はステルス戦略爆撃機B2スピリットやGPSなどの技術を開発して、後にレーガン政権がソ連を威嚇する際に役立った。 79年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻した後、カーターは翌80年1月の一般教書演説で「カーター・ドクトリン」を発表。石油の供給が妨害された場合はペルシャ湾岸で武力行使も辞さないと威嚇した。一方で対ソ連の穀物禁輸は効果がなく、モスクワ夏季五輪のボイコットは当初こそ支持を得たが、すぐに政治的な負担となった。