『オッペンハイマー』に現れたノーラン史上最大の“密室空間” 賛否を分けた演出を整理する
内面の物語としての原爆描写
ところで、『オッペンハイマー』は、日本での劇場公開が大幅に遅れたことに示されるように、広島・長崎への原爆投下というきわめてセンシティヴな史実が絡んだ、日本ではいわくつきの作品でもある。そして、原爆の破壊力や広島・長崎の甚大な被害の実態が直接的に描かれていないことで(爆心地の記録映像を映したスクリーンをオッペンハイマーが鑑賞するシーンは出てくるが、スクリーンの映像は映画には写らない)、全米公開の当初からーー例の「バーベンハイマー」という社会現象とも相俟ってーー賛否両論を呼んできた。 そして、この本作が絡む倫理的側面については、今回のノーランの採用した固有の演出プランも絡んでくる。『オッペンハイマー』は、物語の全編が、主人公オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の半生を描いた戦前からのシーンと、ストローズを中心とする戦後の公聴会のシーンが交互に挿入され展開する構成を持つ。このうち、前者はカラー、後者はモノクロで描かれており、この趣向は誰が見てもノーラン自身の出世作『メメント』(2001年)を彷彿とさせるだろう。 重要なのは、ノーランがこのうちのオッペンハイマーのシーンを、あくまでも彼の主観的で内省的な視点からの物語として描こうとしていることだ。プレスのプロダクション・ノートで彼は次のように語っている。 「映画は、物語を語るメディアだから、観客を主観的な経験の中に引きずり込み、登場人物が判断する出来事に、自分だったらどう判断するか考えさせるのに適している。[…]様々な視点から私たちはオッペンハイマーの精神の中に潜り込み、観客を感情の旅に連れ込もうと試みた。それがこの映画の賭けだった。とてつもなく破壊的な一連の出来事に巻き込まれた、しかし正しいと信じた理由のためにそれをなした一人の人物の物語を語ること、しかもそれを彼の視点から語ること」(試写で配布されたプレス、9頁を参照) 実際、ノーランは映画の脚本としてはきわめて異例なことに、このオッペンハイマーの一連のシーンを、一人称で書いたという。「我々はオッペンハイマーの肩越しにものを見、彼の頭の中にいて、どこに行くにも彼と一緒なんだ」。 こうした演出プランに沿って、『オッペンハイマー』では原爆の脅威や惨禍は、あくまでもオッペンハイマーの「内面」との関係において寓意的に描かれる箇所が目につく。もちろん、トリニティ実験のシーンなどは原爆の凄まじい破壊力を客観的状況として描いていたりもする。ただ、例えば、広島・長崎への原爆投下が成功した後、ロスアラモスでオッペンハイマーが人々に熱狂的に祝福されるシーンでは、原爆による惨禍は、彼の脳裏の主観的なフラッシュバック(心象イメージ)として描かれる。そして、それは物語の当初から繰り返し挿入される、若き物理学者オッペンハイマーの頭脳に浮かぶ抽象的な原子のイメージの延長上にある。したがって、ノーランからすれば、インタビューなどでも答えているように、本作で広島・長崎の被害が直接的に描かれない理由は、カラーのシーンでもモノクロのシーンでも、あくまでも主人公や人々が、その状況を直接的に目撃していないからだ、ということになるだろう。こうしたノーランの演出上の選択に対して、倫理上の問題を指摘する視点は、確かにありうるだろうと思う。 ただ、あえて1点付け加えておけば、以上の、状況をあくまでもオッペンハイマーの主観的で内省的な視点から物語るという作劇的な選択は、実は現実のオッペンハイマーの固有のパーソナリティを踏まえているとも言えるのだ。というのも、現実のオッペンハイマーもまた、その青春期から精神的な不調に悩まされてきた、内省的な人物だったからだ。本作の原案本となっているカイ・バード&マーティン・J・シャーウィンのノンフィクション『オッペンハイマー』によると、オッペンハイマーはケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所に留学した20代初め頃から重度の鬱状態に陥る。そして、彼の両親は、次のように回顧している。 「長い交渉の末、ロバートを保護観察に付すこと、ロンドンのハーレー街で開業している著名な精神科医のところへ通って、定期的に検査を受けることで話がついた」。そして、「フロイト派の精神分析医は精神分裂病(統合失調症に伴う徴候に付けられた古い病名)と診断した。[…]そして何年も後になって、オッペンハイマーははっきり思い出すと語った。「わたしは、まさに自殺寸前だった。これは慢性的な願望だった」」(『オッペンハイマー』上巻[異才]、河邉俊彦訳、ハヤカワノンフィクション文庫、2024年、127~129頁)。 ここで記されているような、若きオッペンハイマーの精神的不調は、ケンブリッジの主任指導教官パトリック・ブラケットに毒を注射したリンゴを机の上に置き食べさせようとした「毒リンゴ事件」のエピソードとして劇中でも登場する(ちなみに、映画では毒リンゴを口にしようとするのはブラケットではなく、ケネス・ブラナー演じるニールス・ボーアに変更されている)。また、ノーラン作品ではきわめて珍しく、公聴会で尋問されている最中のオッペンハイマーが、彼のその時の内面を視覚化したように、突然、全裸の状態に変わり、あるいは愛人のジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)が彼にまたがってセックスするといった表現が登場する。また、映画では、オッペンハイマーが美術館でピカソのキュビズムの抽象画を鑑賞するシーンが出てくるが、オッペンハイマーが卓抜な科学者であった一方、ドストエフスキーを読み、詩を書き、『資本論』やスピノザを読破するような、いわゆる「文系」的な感性に恵まれた人物であったのも史実の通りである(そもそもオッペンハイマーの母も画家だった)。すなわち、『オッペンハイマー』においてノーランが採った広島・長崎の原爆被害の直接的描写を回避し、原爆描写をあくまでもオッペンハイマーの内面の物語として回収する演出プランには、さしあたり実際の史実が根拠を与えていると見ることができる。もちろん、そのことを踏まえた上で、本作の倫理性を批判する立場はなおありうるが、本作の理解のために押さえておく論点ではあるだろう。