『オッペンハイマー』に現れたノーラン史上最大の“密室空間” 賛否を分けた演出を整理する
「マイノリティの顔を持つ国民的英雄」という多面的人物像
また、他ならぬその伝記の題材にオッペンハイマーという人物を取り上げたことも、昨今のハリウッドや現代社会の時流を巧みに汲み取っているように思われる。 前年のアカデミー賞作品賞を受賞した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2023年)がアジア人女性初の主演女優賞、さらにその前の『コーダ あいのうた』(2022年)が聾者男性初の助演男優賞を受賞したことにも端的に表れているように、ここ10数年は、社会的マイノリティへの多様性や寛容性がますます広く叫ばれるようになっていることは周知の事実。それでいうと、このオッペンハイマーという人物も、そうした現在の時代的要請に適うものになっている。 映画の中でも描かれていたように、オッペンハイマーは非常に多面的な経歴を持った、実に複雑な人物だった。もちろん彼は、原子爆弾の開発によってアメリカを勝利に導き、20世紀後半の世界史を劇的に変えた国民的な英雄として賞賛される人物である。ただ一方、当時のアメリカ国内ではマイノリティだったユダヤ人コミュニティ(オッペンハイマー家は、当時のアメリカ国内では特殊なユダヤ教分派だった「倫理文化協会」に属していた)に属し、また長じて危険分子だった共産党員とも交流し、それが元で、戦後は、かつて自らが主導した核開発に対する慎重論を提唱したこともあり、ソ連のスパイという濡れ衣を着せられて公職を追放され、FBIの監視下に晩年まで長く置かれることにもなった。以上のような彼の特異な経歴は、北米の観客たちの心情に強く訴えるアメリカの威信や栄光を体現すると同時に、昨今いたるところで考慮される多様性への目配せをも伺わせる両義性を持った、現代の伝記映画にうってつけのものだと言える。また、本作はある意味で「男性の脆弱さ」を描いた物語だと言えるが、これもいかにも現代的な要素だろう。思えば、今回、オッペンハイマーと対立するルイス・ストローズを演じたロバート・ダウニー・Jr.の当たり役となったマーベル映画(MCU)の「アイアンマン」もまた、中年男性のヴァルネラビリティを体現するキャラクターだった。『オッペンハイマー』の成功は、このような複数の要因が絡んだものだといってよい。