アメリカ企業とは「もはや勝負にはならない」日本のAI研究開発予算…それでもGoogle出身の人工知能研究者が日本で起業したのはなぜ?
日本的な「森を見る」物の見方の出番
ニスベットによれば、東洋人は木の集合体である森を見る傾向がある。つまり、全体を包括的に見るということである。ターゲットである葉が付いたヒマワリは、丸みのある花びらが印象的であり、グループ1に描かれたヒマワリは三つが丸みのある花びらであり、葉が付いているものも三つある。よって、ターゲットは全体的な印象として、グループ1に属すると感じるのだ。 これに対して、西洋人は森ではなく木、すなわち部分に着目する傾向が強いのだそうだ。ターゲットのヒマワリの茎はまっすぐであるのに対して、グループ1のヒマワリの茎はすべてが曲がっている。これに対し、グループ2の茎はすべてまっすぐである。そして、ヒマワリの構造である、花びら、葉、茎などの基本パーツはグループ1も2もほぼ同じ。よって、ターゲットはグループ2に属すると感じる、というのだ。そのように説明されても、筆者の「グループ1に属する」という感覚は変わらず、グループ2に属するという感覚が湧き上がることはなかった。 ここで主張したいことが何かといえば、「森を見る」傾向が強い日本人のモノの見方は、今後のAI研究開発において、有利に働く可能性があるということだ。 個々の要素であるアリや脳神経細胞をひたすら見ていても、群れた全体として何が創発されているのかを見ることができなかった。東洋的な物の見方ができる日本人には、群れることで創発される知能を感覚的に理解できる感性があるのかもしれない。重要なのが、モノの見方の違いは、モノの作り方にも影響を与えるということである。一つのスケールした巨大なAIを作るやり方に対して、小粒なAIが多数群れることで巨大なAIの能力を創発させるという戦略はまさに東洋的であり、sakana.aiの創業者らも、だからこそ日本において起業したのだという。 次世代の、人と共生する汎用性の高い自律型AIは一つのAIではなく、小粒のAIの群れが創発するAIとして実現されると考えられる。そうなると、生物のような群知能型に基づく構築への期待が高まってくる。そのときこそ、東洋的感性を持つ研究者がブレークスルーを起こす可能性があるのだ。
栗原 聡/Webオリジナル(外部転載)