18歳が抱えた重圧…敗退なら「降りられない」 素直に喜べなかった悲願の甲子園
宇野勝氏は銚子商3年夏に甲子園出場…投手復帰案を拒否し、遊撃で活躍した
中日、ロッテで通算338本塁打を放った宇野勝氏(野球評論家)は1976年、銚子商3年の夏に目標の甲子園出場を果たした。準々決勝まで勝ち上がり、打者としては3試合で1安打だったが、強肩を生かした守備力でプロスカウトに注目された。そんな聖地での戦いでは何よりも、高松商(香川)と対戦した初戦(2回戦)の強烈なプレッシャーが忘れられないという。「『負けたら銚子の駅に降りられないらしいぞ』とみんなが言っていたんだよ」。これには名門強豪校ならではの“問題”があった。 【動画】うなり上げる剛速球は163キロ! 17歳高校生の衝撃の投球 1976年、高校3年の夏を迎える前に、宇野氏には投手復帰の話が持ち上がった。もともと1年秋は背番号1のエースとして千葉大会に臨みながら、右肘を痛めてリタイア。その後、内野手に転向したが「肘は治っていたし、ボールを投げればまだまだ速かったし、コーチから『どうだ』って言われたんだよ」。だが、ここまで頑張ってきた同級生の当時のエースの気持ちを考えて断ったという。「そうなったらそいつが辞めるという噂も流れたんでね。噂だけどね」。 “投手・宇野”はその時点で完全消滅した。「球の速さ的には自信もあったし、(投手として)いけるっていうのもあったんだけど、チームのためっていうか、そのままでも(甲子園に)行けるんじゃないかという感じも何かしたんだよね。それで、コーチに『いや、これで行きましょう』と言ったんだと思う」。その通り、銚子商は千葉大会を駆け上がった。館山を10-0、多古を9-1、市銚子に4-0、千葉商大付を9-0、東金商を2-0で破り、4強に進出した。 準決勝では、前年の1975年夏と秋に敗れた習志野に延長10回3-2でサヨナラ勝ち。「接戦だったよね。ギリギリだった。やばかったんだよ」と振り返ったように7回表までは0-2で負けていた。その裏に追いつき、延長戦の末に手にした勝利だった。安房との決勝戦は毎回得点の15-0で大勝。「習志野に勝って、行けるって雰囲気になったのも覚えているよ」。宇野氏が主力となって初めてつかんだ甲子園切符。目標を達成した。