日本兵1万人はどこへ消えた…ある日突然”父を失った”僕が「硫黄島上陸」をあきらめなかったワケ
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が13刷ベストセラーとなっている。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
父なき少年時代、青年は荒野をめざす
硫黄島は戦後、日米の軍事拠点となり、民間人の上陸が原則禁止された島だ。本土から1200キロ離れ、交通手段は一部例外を除けば自衛隊機しかない。取材を始めた当初は、島に渡るのは不可能だと思っていた。 しかし、その後、ことあるごとに硫黄島の話を上司や同僚に言い続けた結果、硫黄島から2000キロ離れた北海道から東京支社に異動し、硫黄島までの距離を800キロ縮めることができた。残り1200キロも何とかなるはずだ。東京着任直後から僕は、硫黄島上陸の実現に向けて、燃えに燃えた。 なぜそこまで執念が続いたのか。その理由には、父不在の少年時代を過ごした僕の生い立ちもある。 10歳のある日突然、父を失った僕は「鍵っ子」となった。大黒柱を失った母は懸命に働き、帰宅は夜になるのが常だった。僕は夕方まで近所の図書館で過ごすように言われ、気がつけば今度は「本の虫」になっていた。 それが加速したのは中学時代だ。スケールの大きな放浪記に魅せられた。小田実『何でも見てやろう』や沢木耕太郎『深夜特急』などだ。経済的に旅行する余裕のない母子家庭で育った反動だったと思う。僕もいつか未知の地へ。そんな夢を抱いた。 僕はどんな大人になるべきなのか。父の教えが10歳で止まってしまった僕にとって、中学時代に出会った教師の教えは、人格形成に大きく影響した。その中でも忘れられないのが、中学校の卒業式の日、担任教諭から配られたプリントに書かれていた激励の言葉だ。
「青年は荒野を目指せ」
五木寛之『青年は荒野をめざす』の引用だと知ったのは後のことだ。担任からの最後の教えは深く心に突き刺さった。人生で岐路に立ったら、迷わず未踏の地に繋がる道を行け。そんな教えだと自分なりに解釈した。 大学に入ると、僕は迷わず世界に飛び出した。1年間休学し、タイからユーラシア最西端のロカ岬(ポルトガル)を目指す大陸横断の放浪に出た。お金がないから、どの国でも庶民と同じかそれ以下の衣食住で過ごした。必然的に各国で貧困層と交流した。この経験が、社会的少数者の声なき声を伝える新聞というメディアを職業として選択することに繋がった。 こうした生い立ちで形成された僕の記者精神は「荒野を目指せ」の教えの上にある。記者になってから読んだ『空白の五マイル』には多大な刺激を受けた。朝日新聞の記者だった角幡唯介氏が未踏の地に挑んだ冒険記だ。 ほとんど報道されたことのない硫黄島の遺骨収集現場は、僕にとって、記者人生をかけてでも辿り着きたい「未踏の地」だった。 つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。
酒井 聡平(北海道新聞記者)