青木さやか「肺がん手術から5年が経過した。当時存命中の母にも知られたくなかった。でも勇気を出して話したら楽になれた」
青木さやかさんの連載「50歳、おんな、今日のところは『……』として」――。青木さんが、50歳の今だからこそ綴れるエッセイは、母との関係についてふれた「大嫌いだった母が遺した、手紙の中身」、初めてがんに罹患していたことを明かしたエッセイ「突然のがん告知。1人で受け止めた私が、入院前に片づけた6つのこと」が話題になりました。 今回は「肺がん手術から5年が経過した人」です。 【写真】がん経験者として語り合った河村隆一さんと青木さん * * * * * * * ◆罹るとは思ってもみなかった肺がん 肺がん手術から5年が経過した。 いまや、「がんだったんですね」と気遣われながら聞かれても「え、わたし、そうでしたか。そうでしたね、そういえば」と、すっかり忘れている。 肺がんに罹るとは思ってもみなかった。肺がんは、タバコを吸う男性というイメージが大きかった。 自身が病気になり、正しい知識を持ったとき、いかに間違った知識でがんという病気を漠然と怖がっていたかを知った。 まず、肺というものは、左右合わせて5個あるという(びっくり)。 肺がんというと、咳がとまらない、息苦しいというイメージだったが、初期では体の不調はないという(実際わたしもそうであった)。 タバコを吸う人に多い肺がんもあるが、今はタバコを吸わない、そしてアジア圏の女性に増えているタイプの肺がんがあるという(わたしもそれに当てはまる)。 一口に、がんと言っても様々で、できた場所、ステージなどによって全く違う。わたしは肺がんには詳しくなったが、他のがんのことは全くと言っていいほど知らない。
◆世の中には、がんの話題が溢れている 親も祖父も、がんだった。いつかわたしもがんになるかもな、と思ってはいたが、実際診断をされた時のインパクトは大きかった。心から笑うということができなくなった。 その時、闘病中で存命だった母には知られたくなかった。心配をかけたくなかったとも言えるし、当時母とはうまくいっていなかったので、母がわたしの病気で自分を責めたりすることすら、許したくなかった。ともかく、この時母のことを考える余裕がなく、蚊帳の外にいて欲しかった。 母だけでなく、がんになったということはできれば誰にも知られなくなかった。欠陥があると思われるのでは、とか仕事が減るのでは、とか同情されるのでは、とか、知られていいことなんて一個もないと思った。 がんだと隠して生活をしていると、世の中には、がんの話題は溢れていることを知った。「あの人がんらしいよ」「マジで!」的な会話は多く、その度、胸がぎゅっとつかまれる思いがした。あゝそうだよな、こう言われるよな、これは隠しておかなくては、それがいい。だから、わたしは、そんな時はもちろん黙ってやり過ごしていたし、少しずつ嘘をつきながら他人と付き合いはじめた。それはそれで、別に悪くはなかった。 両親が他界し、『母』という自伝的小説を出すにあたり、わたしは迷ったが、がんの手術をしたことを書くことにした。主人公のわたしを表現するには、とても大きな出来事だったからだ。
◆隠し事はできるだけないほうが、楽 がんの手術をしたということを世間に向けて自ら叫んでみるのは勇気がいることだったが、結果的に、とてもとても良かった。 誰にも何も思われないし(正確には思われるのかもしれないが言ってはこないし) わたしもがんだったんだよ~(笑笑)なんて、がん話で盛り上がることもあったし。 肺がんの疑いで青天の霹靂どうしてよいかわからないのです、という見知らぬ人を励まし、経験を伝えることだって時にはできた。 人の役に立ってる!と感じることは嬉しいし 隠し事は、できるだけないほうが、やっぱり、楽だ。
青木さやか
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