「グラディエーター」でラッセル・クロウの闘志をかきたてたひと握りの土
強者が勝つのは当たり前〝いかに戦うか〟
あらためて考えてみると構成も簡素そのもので、上映時間155分中、初の試合が約1時間経過した時点でようやく行われ、宿敵との再会が1時間半時点、そしてそれ以降で見せ場の試合が2回のみ(しかも全編で個人試合はこの2度のみ)という具合。派手な見せ場の連続体とも言える昨今の超大作を見慣れた身には、恐れ知らずなほど折り目正しいというか、いささか素っ気なく感じられるほどだ。そもそも主人公が体技に秀でる元将軍であり、実力面で揺らぎがない点も、決して珍しいわけではないものの描くうえでの難所ではあろう。修行などによる実力向上が展開されないということは、つまるところ「もともと強い人間が勝ち続ける」ことにならざるをえないからだ。 だとすれば、本作を見ていて感じられる面白さは、勝ち負けのハラハラの外側にあると言えるかもしれない。申し訳程度に妨害工作が描かれたりはするものの、やはり勝利は疑いようがないなかで、見るものを刺激するのは「勝つかどうか」ではなく「どう戦うか」のほうということになるだろう。
歴戦のつわもの示す魅力的な細部
それは言い換えれば、「戦術」であり「仕草」ということになるかもしれない。全編がシンプルな構成で展開し、勝つと分かっている戦いがじっくりと繰り広げられるなかで、細やかな描写の着想が際立つわけだ。 なかでも個人的に浮き上がって感じられた魅力的細部は、土である。主人公が、必ず試合の直前に地面の土をひと握りつかんで、手のひらにすり込むのだ。これは、主人公が元農民で土と慣れ親しんでいたというバックグラウンドと響き合う描写でもあるとともに、きわめて実践的な滑り止めの描写でもある。歴戦のつわものであるからこそ、手の滑りが命取りであることを知っているのだ。 この描写は、律義に毎試合繰り返されて、次第に観客にとってもお決まりのルーティーン(「おっ、出た出た」)と化すのであるが、じつのところ最終試合においては異なる作用をしているようにも思える。敵側の策謀により腕を負傷した主人公が不利な状況での死闘を強いられる……という状況で、ふたたび描かれる上記の仕草は、習慣という以上に、満身創痍(そうい)な状態にあってもなお闘志がついえてはいないことの証しとして機能することにもなるだろう。