武田家を滅ぼした3代目・武田勝頼は、実は父・武田信玄以上の最大領土を築いた戦国屈指の猛将だった⁉【イメチェン!シン・戦国武将像】
武田勝頼(たけだかつより)に対して、武田信玄(しんげん)が築いた武田家の栄光を潰(つい)えさせた息子という印象を抱く人も多いだろう。しかしながら、武田家が滅亡したのは、信玄死去直後ではなく、信長による武田家滅亡までにはしばらくの時間があった。実はその間の勝頼の時代には信玄時代以上の領土を獲得し、武田家は衰退するどころか、ますますの勢力拡大を果たしていたというのをご存じだろうか? 武田勝頼は、信玄の4男として生まれた。しかも武田家というよりは、諏訪家の御曹子として生まれたのであった。母・諏訪御料人(すわごりょうにん)が祖父・諏訪頼重(よりしげ)の娘であり、その頼重は甲府・東光寺で信玄によって自害させられている。そうした経過から、勝頼の誕生は「諏訪家の継承者」として意識された。 信玄の嫡男・義信(よしのぶ)が謀叛(むほん)の疑いで失脚し、その後に自刃(じじん/病死とも)したことから、勝頼に武田家の後継者の座が巡ってきた。というのも信玄の男子は、2男・龍宝が盲目であり、3男・信之は早世していたからだ。また他の側室から生まれた男児たちは、いずれも幼すぎた。既に「伊那四郎」あるいは「諏訪四郎」という名前を持ち、伊那・諏訪地方の盟主として位置づけれれていた勝頼は、信州から甲府に移り住み「武田勝頼」になった。 父・信玄の名前と実力が偉大すぎて、勝頼は信虎(のぶとら)・信玄と続く「武田三代」の末端にいて、武田家を滅ぼした無能な3代目という烙印を与えられてしまっているが、実は勝頼の武田家当主としての治世の10年間(1573~1582)には、父・信玄時代の領土を上回る武田家最大の版図を形成しているのである。 また勝頼は、戦う武将として知られ、上杉謙信(うえすぎけんしん)も信長に宛てた手紙の中で「勝頼は若いが、信玄の戦法を守って戦いの駆け引きが大変うまく油断のならない武将である」と評しているほどである。勝頼の初陣は永禄6年(1563)の上州・箕輪城攻めで、勝頼は別々に2度、敵の騎馬武者を討ち取っている。 また信玄の死によって家督を相続した後の天正2年(1574)2月、3万の兵を動員して信長の領する東美濃に攻め入って、明智城を初めとする18の城を落とした。さらに、家康領である遠江(とおとうみ)・高天神城(たかてんじんじょう)に猛攻を加え、信玄でさえ攻めあぐね、落とせなかったこの城を落としている。これにより、遠江の一部を領国化したのだった。 武田家の凋落は、勝頼の無謀な合戦・長篠の戦いによる敗戦から始まった、とする見方が大半だが、実は長篠の敗戦後も勝頼は精力的に動き、天正6年(1578)から9年にかけて、越後の一部(上杉景勝との盟約による)・信濃全域・東上野・北武藏の一部などを領国化した。これは、父・信玄の版図を上回るものであり、一時的には勝頼は、武田家最大の領土を確立したことになる。 確かに勝頼は名門・武田家を滅亡に追い遣った3代目ではあるが、それには様々な不運が付きまとっていた。何よりも「生まれながらにして諏訪氏の人間」だったことが、最大の不幸であったかもしれない。 長篠合戦の最中にこんなエピソードが伝えられている。勝頼は側室を持たなかったが、甲府の近在・高畠村の「おあひ(おあい)」という女性に戦場からラブレターを送っている。おはいは、病気であったらしい。「戦場にいてもあなたのことばかりが気に懸かっています。入梅の季節で蒸し暑い日々が続きます。油断なく養生してください。是いひ詳しい様子を知らせてください…」。繰り返し、病気を早く治してくれ、と書いている。勝頼の優しさが溢れ出る文面である。こうした優しさが戦国武将・勝頼の1面でもある。
江宮 隆之
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