薬物依存症の母との40年にわたる闘い 医師のおおたわ史絵さん、苦しくても「その親しかいない」#令和の親 #令和の子
「娘がどうしたいか」は考えない母
――お母様に対して「おかしい」「他の家の母親とは違う」とは思わなかったのですか。 おおたわ: 思わなかったです。「世のお母さんは、こんなものなのだろうな」と思っていました。実際、幼少期は母のことが大好きだったし、母の後ろ姿をいつも追いかけていた。“普通の母と娘”だった……というよりも「普通の家庭とはどんなものか」を知らなかったから、一般的な親子はこういうものだと思い込んでいた、と言うべきでしょうか。 今、私は矯正医官として、少年院や刑務所内で診療を行なっています。少年院には、はたから見れば異常な環境で育っている若者もいますが、渦中にいる本人はおかしいとは気づいていないんです。他の家がどうなっているか、親子とは本来どういうものか、案外みんな知らないんですよ。 ――医師の道に進まれたのは、ご両親の影響もあったのですか? おおたわ: 父が開業医だったので、私が医師になれば喜ぶだろうなとは思っていました。それ以上に、母から「誰の目から見ても成功者とわかるような人間にならなければ、許さない」というほどの強い期待を感じていた。母に認めてもらうには、医師以外の選択肢がなかった、というのが正直なところです。 ――「本当はこうしたい」という思いを我慢していたのでしょうか。 おおたわ: いいえ、自分はどうしたいか、ということ自体を考えないようにしていたんです。ピアノの発表会のことを思い出しても、そうです。「本当はピンクのかわいいお洋服が着たい」なんて考えても、どうせ通らないのだから、意味がない。どうしたいか、を考えてもムダだから、考えないようにする。すると次第に、自分の意思がわからなくなっていくんですよね。
苦しくても「その親しかいない」
腹膜炎の後遺症の痛みを和らげるために、麻薬性の鎮痛剤を注射したことがきっかけで、おおたわさんのお母様は薬物依存へと陥っていきます。おおたわさんが中高生の頃には注射なしではいられなくなり、どんどん症状がエスカレートしていきました。 ――お母様が依存症であることに気づいたのはいつですか? おおたわ: 医学部に進学し、病院実習に参加したときです。厳重管理しなければいけない薬物の中に、母が毎日注射しているのと同じ薬物があったのです。それで初めて「これはおかしい。ママはいけない薬を使っている」と気づき、我が家の闘いが始まりました。 父と私で方々に相談しに行き、10年近くをかけてようやく依存症の専門医に巡り会えた。良かった、これで何とかなる……と思ったけど、それでも解決には至らない。それだけ薬物依存症は根深い病なのですよね。 辛かったのは、共に闘っていた戦友のような父を、2003年に病気で亡くしたこと。依存していた父を失い、母はいっそう私に執着するようになりました。私を振り向かせるために、ありとあらゆる手を尽くすようになった。 ――たとえばどんなことを? おおたわ: 日に十何回も頻繁に電話をかけてきて、私が電話に出ないと、救急車を呼んで騒ぎを起こしたり、親戚や知人に私にまつわる事実無根の悪口を言いふらしたり……。取引先の銀行にまで、あることないこと話し始めたのです。これ以上関わっていると、まずい。ひょっとしたら母を殴ってしまうかもしれない、と私も追い詰められていきました。 どこまでいっても母への愛情があること、そして、自分にも母と同じ血が流れていることが苦しかった。母と似ていて、私にも依存的な面や、思い込みが激しいところがありました。このままでは母と同じように、制御不能になるまで感情を爆発させてしまうかもしれないと怖かったのです。「家族だから苦しいんだ。もし、これが赤の他人で、愛情がなければ、無視できるはず――」。だから私は母を、“家族ではない赤の他人”と考えることにして、ほぼ絶縁状態になりました。 そして母は一人で亡くなりました。今でも、もっと他に良い方法があったのではと考えます。産んでくれた母を突き放した私のやり方は、正解か間違っているかでいうと、間違っているのでしょうね。でも、あのときはそうするしかなかった。それしかできなかったのです。 ――過酷な体験がありながら、おおたわさんは、お母様のことを「毒親」のようには呼びませんね。 おおたわ: 母の一面がひどいのは事実だけど、それは病によって引き出された部分でもあります。優しくて温かいお母さん、という顔があったことも、私は知っているので。それに、子どもにとって、どんな親であっても「その親しかいない」んです。だから私は、どこかで彼女のことを庇いたいのでしょうね。