【スクープ】日航ジャンボ機墜落39年目の新証言!「エスコートスクランブル要請」はなぜ記録から消されたのか
「エスコート機を上げてくれ!」
午後6時56分、今度は東京ACCから連絡がきた。 「重大な状態にある。パイロットは何か叫んでいるが、よく分からない。エスコート機を上げてもらいたい」 沼田氏の知る限りでは、民間機へのエスコートスクランブルの要請は自衛隊史上、初めてだった。受話器先の声も慌てている。時間はなさそうだ。「すぐに(救難機を)上げないといけない」。即座にADCCに伝えた。 ただ日航機の機影がレーダーから消えたのはこの要請とほぼ同時刻の午後6時56分だった。 午後7時、「ターゲット、ロスト」と再び東京ACCから連絡が入る。「ロストと聞いて墜落したとしか考えられなかった」と思ったという。実際、この時点で日航機は墜落していた。 ADCCからF4の2機がスクランブル発進したと連絡を受けたのは午後7時3分だった。「間に合わなかったか」。沼田氏はショックで呆然となったと振り返る。その後のことはあまりよく覚えていない。 「もう少し早くエスコートスクランブルの要請があれば、とも思う」
政府答弁には存在しないエスコートスクランブルの要請
今回、防衛省が事故の対応についてまとめた政府答弁の想定問答集を情報開示請求で入手した。それには18時57分に事故機がレーダーから消えたことや、それを受けて19時1分にF4が緊急発進した経緯について書かれているが、エスコートスクランブルの要請があったことについては触れられていない。他の答弁書にも見当たらない。 空自峯岡山分屯基地(千葉県、通称「峯岡山レーダ―サイト」)で当時、当直勤務をしていた吉田勝氏(85)の証言で、自衛隊の現場でもエスコートスクランブルの実施を模索していたことも分かっている。(スローニュース 2023年8月15日の記事を参照のこと)2つの現場でエスコートスクランブルが検討されていたのだ。なぜ日航機が墜落する前にできなかったのか。
エスコートスクランブルができるチャンスはあった
沼田氏と吉田氏の証言から、エスコートスクランブルに関する事実関係を時系列に並べてみよう。吉田氏が日航機の緊急信号を受信したのは午後6時26分。操縦不能の「アンコントロール」と聞いたのは、その数分後。さらに数分後に、吉田氏は上官にエスコートスクランブルを上申していた。 ここで、エスコートスクランブルを実施する最初のチャンスがあった。 さらに東京ACCから、沼田氏がいた入間RCCにエスコートスクランブルの要請があったのは午後6時56分。レーダーロストとほぼ同時刻のことだった。 結局、空自がF4戦闘機2機を百里基地からスクランブルをさせる命令が出たのは墜落後の午後7時1分。離陸はその3分半ほど後(当時の加藤紘一・防衛庁長官による国会答弁)だ。 政府はスクランブルが迅速に行われたと強調しているし、確かにF4のスクランブルについては評価する声もある。背景には今回の新証言で明らかになった航空管制の側からの要請も影響したかもしれない。ただ、一刻を争う事態のなかで、その前にチャンスがあったことを、証言は示唆している。 スローニュースでは、2つの重要な新証言と、新たに開示された公文書などから、なぜエスコートスクランブルができなかったのか、そしてなぜ政府答弁など公式見解に記録が残されていないのかを検証します。 筆者:佐藤 等(さとう・ひとし) 地方紙記者。警察や自治体、自衛隊の取材を担当し、調査報道を長く続ける。
佐藤 等/取材協力 宗澤俊郎、Y・A