日ロ首脳会談に想う――「ニコライ堂」に見るロシアとのつきあい方
このところ、日本の外交はロシアに焦点が当てられ、近々首脳会談が予定されている。 領土問題解決にも期待が高まったが、そう簡単ではないようだ。ここでは東京の中心部にある一つの建築から、ロシア文化について、その日本文化との関係について考えて見たい。
神田駿河台のニコライ堂である。 明治24年(1891)、ロシアから布教にやってきた亜使聖徒ニコライによって建立された。丘の上、孤高に聳える大きな尖塔ドームは、明治の半ばから戦後まで、長く東京の象徴景観であり、本格的な洋風建築として、周囲の木造住宅を圧倒したに違いない。幸田露伴の『五重塔』は、腕のいい大工が困難を乗り越えて塔の建設に挑む話だが、ニコライ堂の威容への対抗心から生まれたという説もある。昭和に入ってからは「・・・今日も歌うか都の空に、ああニコライの鐘が鳴る」(歌・藤島一郎)と歌われた。奇しくも、ロマノフ王朝最後の皇帝(ニコライ二世)と同名であった。 夏目漱石の『それから』にも登場する。 「代助は面白そうに、二三日前自分の観に行った、ニコライの復活祭の話をした~中略~彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考えている」 何不自由ない暮らしをしているものの、人生に確たる意義を感じることのできない主人公の代助は、よく言われる「高等遊民」であるが、漱石にとって、また多くの日本人にとって、ニコライ堂という建築とそこで行われる復活祭の式典が、彼の性格と人生観を表現するのに格好のイメージであったのだろう。漱石がこれを書いた(1909)のは、すでに「血の日曜日事件」(1905)が起き、ロシアが革命に向かって騒然と動き出した時期である。 しかしその建築も、今ではすっかりビルの谷間、帝政時代のロシアが日本人の心から消えてしまったかのように埋もれている。
僕は大学に入ってすぐ、早くから建築家を目指していた親友のKとともにこのニコライ堂を観に行って、やはり何となく明治の洋風建築、すなわち西洋文明の象徴として受け止めた。 多くの日本人がそう思っていた。 だがよく考えてみると、これは西欧ではなく、ロシアの建築様式であり、ロシア正教系の聖堂である。正式には、イイスス・ハリストスの復活を記念して「東京復活大聖堂」という。 ロシアの文化は、西欧から見れば、東洋的な要素を多く含む。 ロシア正教のもとであるギリシャ正教(グリーク・オーソドックス)の聖堂はビザンチン様式と呼ばれるのだが、その特徴は、大きなドーム(半球型)屋根と、聖画(イコン、特に聖母を重視している)の装飾である。ロマネスク、ゴシックと発展したカトリックの聖堂は、ヴォールト(かまぼこ型)屋根に、彫像とステンドグラスの装飾を特徴とし、イスラムのモスクはドームとミナレット(独立した尖塔)、そして偶像崇拝を禁じているためにアラベスクという抽象模様の装飾が発達した。 イスタンブールのアヤ・ソフィア寺院がキリスト教からイスラム教に転じているように、分布地域上も、建築技術上も、ビザンチン様式はイスラム様式に近い。僕は、中国の東北地方ハルビンで、ほとんどイスラム建築のような巨大な玉葱頭のドームをもつビザンチン様式の大聖堂を観て、感嘆した覚えがある。 つまり、ニコライ堂の様式は、日本人にとっては、大まかに「西洋」であっても、世界的な文化論ではイスラムとともに「東洋」と扱われる場合さえあり、少なくとも西と東の中間に位置づけられる文化なのだ。