あの藤原道長もお手上げだった!? 平安貴族が忌避した“犬の穢れ”
古来、人と犬は共に生きてきた。言うまでもなく、その関係性や飼育方法などは時代によってさまざまである。今回は、1月7日から放送開始となるNHK大河ドラマ『光る君へ』の舞台となる平安時代において、犬はどのような存在だったのか、平安貴族が書き残した日記から紹介する。 ■時代に合わせて変化し続ける犬との共生社会 今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公のドラマである。言わずと知れた『源氏物語』の作者で、清少納言と並び称される平安時代の才女だ。 NHKは莫大な費用をかけて、宮中を再現するセットを製作したとのことである。大河ドラマは時代劇最後の砦と言っても過言ではなく、見応えのある内容を期待したい。 さてその平安時代、日本の犬はどういう暮らしをしていたのだろうか。犬は古くから狩猟に使われていた。『日本書紀』武烈天皇八年条に、天皇は「田猟を好みて、狗(いぬ)を走らしめ馬を試(くら)ぶ」とある。 大和朝廷の時代になると、組織的に犬が飼われるようになる。安閏2年(535年)八月条に「詔して、国国の犬養部(いぬかいぶ)を置く」とあり、諸国に犬を扱う部署が置かれたことがわかる。用途は番犬だったらしい。もっとも犬養部は、大化の改新の頃には形骸化していて、律令国家体制が整った頃には消えていた。以後、資料に出てくるのは鷹狩(たかがり)のための犬、すなわち鷹犬(ようけん)である。もちろん、全ての犬が鷹犬になったわけではなく、野良犬もたくさんいた 清少納言の『枕草子』には、「凄まじきもの」の一つとして「昼吠ゆる犬」という有名な一説がある。宮中にも野良犬が住み着いていたのだ。翁丸(おきなまろ)という名前がついた犬の話も出てくる。 翁丸は清少納言が仕えていた一条天皇の皇后、定子(ていし/さだこ)の住居に住み着き、女房たちから餌をもらって暮らしていたと思われる。桃の節句の時には、蔵人(くろうど)が翁丸の頭に柳で作った冠を乗せ、首に桃の花を、腰には桜の花をつけて練り歩かせたと記されている。 この一条天皇には彰子(しょうし/あきこ)という中宮がいた。中宮とは形式上、皇后に次ぐ地位だが、実際には皇后と同じだった。こちらには紫式部が仕えていた。紫式部と清少納言は同時代に、同じ天皇の皇后と中宮に支えた女房だったのである。ただし、紫式部が出仕し始めた頃には既に清少納言は宮中を去っており、この2人の間に面識はない。 女房というのは女官のことで、平安中期以後、教養を身につけた中流貴族の娘が出仕するようになった。女房たちは、皇后や中宮を中心に知的サロンを形成し、和歌をたしなみ、平仮名文学を生み出した。優秀な女房を抱えることは、皇后や中宮の威光にもつながった。紫式部と清少納言はその代表格である。 さて、そんな平安時代はまた、仏教の浸透によって穢れの観念が広まった時期で、それに犬が関係してくる。犬は自由に歩き回って、神社や宮中などの聖域にも入っていく。そして所構わず死んでしまう。動物の死は、穢れをもたらすものとして忌避された。 いつの時代でも、動物の死体を見るのは気持ちいいものではない。それでも、今はそういう機会が少なくなった。しかし昔は突然、死体に出くわすことがあり、それが穢れとされて大ごとになったのである。平安貴族の日記には、犬の死にまつわるエピソードが出てくる。 女流日記文学の先駆けとされる藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が書いた『蜻蛉日記(かげろうにっき)』には、息子が遭遇した災難についての記述がある。息子の道綱は天延2年(974年)4月、賀茂祭で右馬助(うまのすけ)寮からの勅使という大役をおおせつかった。 右馬助というのは、朝廷が有する馬の飼養や調教にあたる馬寮の次官である。賀茂祭は葵祭とも呼ばれ、今でも行われている京都三大祭の一つだ。平安時代に祭と言えば賀茂祭のことだった。大河ドラマ『光る君へ』にも登場するかもしれない。 平安時代の装束で行われる行列、特に斎王代が唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)で輿(こし)に乗る姿が有名で、この祭は当時から人気があった。 斎王とは、神社に巫女として奉仕する未婚の皇女である。祭では当日まで禊(みそぎ)をし、身を清めて穢れのない日々を過ごす。現代において斎王代になるのは老舗の娘さんや社長令嬢などで、京都ならではの文化である。 賀茂祭(葵祭)は華やかで美しい斎王代が話題になるが、本当の主役は天皇が派遣する勅使なのである。『源氏物語』の中では光源氏が務めている。道綱は、この名誉ある大役を務めることになったのだ。しかし、その道綱に災難が降りかかる。禊の当日、神社に向かう途中で犬の死体に出会ってしまったのだ。その結果、道綱は無念のお役辞退となってしまったのである。 当時の最高権力者だった藤原道長も、寛弘6年(1009年)9月、宮中に向かおうとしたところ、縁下で犬が出産したため参内(さんだい)を控えることになった。死だけでなく出産まで穢れになるという点が、現代人には理解しづらいところである。 道長は、紫式部が支えた中宮彰子の父親で、三人の天皇の外祖父となった。位人臣を極め、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけるとこともなしと思へば」という有名な歌を残している。そんな道長も、犬の死穢と産穢には勝てなかったのだ。 同年3月、同じく道長は身を清めた上、金峯山(きんぷせん)に参詣する予定でいた。ところが、身を清めるために使っていた館で犬が出産し、さらに生まれた子犬が死んでしまった。二重の穢れである。参詣に出かけるかどうか周囲で議論が起き、結局諦めることになった。 こういうことがあったから、宮中では定期的に犬を追い出す犬狩(いぬがり)という行事があった。前述の『枕草子』に出てくる翁丸も、一度追い出されている。巷にあふれていた野良犬は、ゴミも屍体も食べていた。 その後、武家の時代になっても穢れの観念は残った。選ばれた犬が鷹犬として大事にされた一方で、野良犬はその餌にされた。戦国時代には戦乱にも巻き込まれただろう。だが江戸時代になると、野良犬は様々な災難に見舞われたものの、犬が穢れをもたらすという観念は薄れていったと思われる。武家では、座敷犬として狆(ちん)が愛玩された。また江戸中期になると、犬は人間たちと一緒に伊勢参りもするようになったのである。 犬は常に人間のそばで生きてきたために、人間の都合によって様々な扱いを受けてきた。今や室内飼いが主流になり、一緒に寝る人もいる。犬の数自体は減っているが、犬にとって少しは暮らしやすい世の中になったと言えるかもしれない。
川西玲子