アメリカ出身の私が、20年以上「日本語の歌詞」にふれてきて感じた変化
歌詞で日本語を勉強した
その時から邦楽が徐々に増えていく。日本の情報が広くインターネットに載る前のことで、故郷のレコード店では海外のCDが販売されていなかった。だが同じ日本語の授業に出ていた香港出身の同級生はいつも夏の里帰りで日本の漫画やCDを買ってきて、夏の旅行以来その世界に関心を示していた僕にも貸してくれたので、少しずつ日本で流行っていたアーティストのことがわかるようになった。貸してもらったCDはすべて同級生の趣味のもので、僕は選り好みせずに、貪欲に聴いた。ときには気に入るものもあった。宇多田ヒカルの曲はアメリカのポップスを聴いてきた僕に馴染みやすかったし、スピッツのボーカルも純粋に好きだった。一方、その時の自分が抱いていた日本への憧れでもカバーできないほど趣味に合わないものもあった。当時の某人気アイドルグループのCDを貸してもらった時は、1曲目を最後まで聴くことすらできなかった。 思うに、邦楽への関心はこの時期がピークだった。2週間ばかり垣間見た世界のことを知りたくて、音楽であれ映画であれ、媒体を選ばず手に入る僅かな情報をすべて吸収していた。同級生が貸してくれたアルバムを何度も聴いたけれど、一曲一曲が気に入ったというよりも、その音楽によって示唆された、より大きな世界に好奇心があったのだ。 それぞれのアルバムを何度も聴いて、歌詞を勉強した。高校の日本語の教科書に載っていた堅苦しい、古めかしい言い回しに対して、歌の中には生きている言語があって、それだけで禁断の書を覗き見しているような愉快さがあった。和英辞典と、分厚い漢字辞典を参考にしながら、アルバムジャケットの歌詞を注意深く英訳した。出来上がった訳文はとっくに無くしたからどのような出来になっていたかは確認できないが、きっと誤訳だらけだっただろう。どの言語であれポップソングのやや陳腐な展開は誰にでもわかるからあえて明確に表現する必要はないが、パターンを読み取れない非母語話者には言葉に残された穴を埋めようがなく、想像力で補塡するほかない。 それでも歌詞を翻訳したり曲を繰り返し聴いたりしているうちに、ある程度理解できるようになった。歌詞をそのまま日本語として理解できなくても、頭の中で自分が施した英訳と即座に差し替え、歌の流れをそこそこ辿ることができた。歌の意味が漠然と、なんとなくわかってきたが、その言葉はまだ僕のものではなかった。意味が多少わかっていても、経験を経て言葉に付随してくるものがまだ蓄積しておらず、感情へ直に働くことはなかった。 スマホの画面をもうちょっとスクロールして、再び日本に渡ってきた2005年まで戻ってくると、邦楽の曲数がぐんと減り、洋楽が主になってくる。その頃は日本に住んでいたし、徒歩圏内にレコード店があったので、邦楽への探求をさらに深めればよかったものの、むしろ逆方向に進んだ。実際に日本にいて、日々その現実を肉眼で見ていたから、音楽を通して日本を体験する必要がなくなったのだろう。それに、思えば当時仲良くしていた日本人のほとんどが洋楽好みで、なんとなく邦楽を下に見ている風だったから、感化されてしまったのかもしれない。 20年前の日本は洋楽に傾倒している人が今よりもっと多かったような気がする。ビートルズやオアシスなど絶えず人気を博しているポップスもそうだけれど、たとえばインディー・フォークやシューゲイザーなど比較的マイナーなジャンルでもそれなりの数のファンはいた。関西に住んでいた頃、年に数回、心斎橋のクラブクアトロやZeppなんばで来日していたお気に入りの洋楽アーティストのライブに行っていたが、どのようなバンドでも会場は常に満員状態だった。 それらのライブは、自分がアメリカで経験していたライブとはどことなくテンションが違った。アーティストとオーディエンスとの距離が若干遠いような気がした。もしかしてライブに来ている日本のファンは、かつて邦楽を聴いていた僕と同じように、自分の日常生活、自分の現実、自分の退屈な言葉とはかけ離れた、別世界との接点を求めているのではないかと思った。そう思うと、会場にぎゅうぎゅうに入っていたオーディエンスの全員に対する強い仲間意識が湧いてきた。同じバンドのファンとしてではなく、同じ洋楽のファンとしてでもない、同じしょうもない夢想家としての共感だった。 ここ数年は洋楽離れが進んでいるらしい。確かに学生と話していてもアメリカやヨーロッパのアーティストがあまり話題にならず、かわりに日本や韓国のアーティストのほうが人気という感触がある。音楽配信サービスが普及している今は、世界中のありとあらゆる音楽が昔より遥かに手に入りやすくなったが、無限にある選択肢に直面した若者は逆説的に自国や隣国で作られた、おそらく親しみやすい音楽を選んでいるみたいだ。 インターネットが充実して、海外のメディアが身近になったからこそ、洋楽は別世界から届いたもののような神秘性を失ったのかもしれない。海外へ行かなくても、海外の文化がなんとなく卑近に感じられ、自分の目で見ずともわかっているつもりになってしまう今は、未知への好奇心を持つことが少し困難になってきている。いい意味でも悪い意味でも、世界は以前より小さくなってきた。 飛行機の窓からゆっくりと後ろに過ぎ去ってゆく地形を眺める。いつの間にか、馴染みの夜景が見えてきた。そろそろ着陸態勢に入る頃だ。 高校生の時に聴いていた邦楽のプレイリストの再生ボタンを押す。20年以上前に、かつて何度も聴いた音楽が久しぶりに耳に届く。メロディーはそのままだが、歌詞は違う。言葉自体が変わったわけではない。それらの言葉が、僕にとって意味をなすものになっただけだ。それは辞典に載っている無機質な意味ではなく、実際に生きているうちに、手垢のようにそれぞれの言葉にくっついてきた意味である。言葉に引き起こされる感情が自分の中で広がっていき、まるで初めてその曲を聴いているみたいだ。 邦楽を聴いて別世界を想像することはもうないだろう。そこに現れている世界はずっと距離の近いものになってきた。 * 次回は1月20日公開予定です。
グレゴリー ケズナジャット(作家)