密約をめぐる「日米間外交」のドタバタ劇…明白なウソをつきつづけていた日本政府
何度言っても伝わらない(笑)
それにしても、いったいどうしてこんなことが起きてしまうのでしょう。 1960年に岸政権が結んだ重大な密約が、わずか3年後、同じ自民党の池田政権の外務大臣(大平)に、もう引き継がれていないのです。さらに大平が「今後はそう認識する」といった密約の内容が、やはり次の佐藤政権にも伝わっていなかったのです。 というのも、ライシャワーが翌年(1964年)の9月、外務大臣の職を去って間もない大平に会って確認したところ、彼は後任の外務大臣である椎名(悦三郎)に対して、やはり密約の内容を伝えていないようだった。 そのためライシャワーは同年12月、池田に代わって首相になったばかりの佐藤栄作を官邸に訪ね、やはり同じ密約についての説明をしたのだそうです。 そのとき説明を聞いた佐藤がなにも反論してこなかったので、この時点でアメリカ政府は、日本政府が密約の内容を了承したものと考えていました。 ところがそれから4年たって(1968年)、ライシャワーの次に駐日大使になったアレクシス・ジョンソンが、やはり牛場信彦・外務事務次官と東郷文彦・アメリカ局長(どちらも戦後の外務省を代表する超エリート外務官僚です)に対してそれまでの経緯を説明し、 密約の内容についての確認を求めたところ、牛場と東郷は、1963年4月の一回目の大平・ライシャワー会談については外務省に記録があるとしながらも、大平がアメリカ側の解釈に同意したことは認めませんでした。 さらに、アメリカ側の主張にある二度目の大平・ライシャワー会談(1964年9月) と、佐藤首相への密約の説明(同年12月)については、外務省内を探しても、どこにも 記録が見当たらなかったとしたのです(東郷文彦「装備の重要な変更に関する事前協議の件」 /外務省「報告対象文書1 5」ほか)。
明白なウソをつきつづけた日本政府
ここまで読んでいただいただけで、この問題をめぐる日米間の外交が、いかに混乱したドタバタ劇のような状況にあったかが、よくおわかりいただけたと思います。 しかし、いちばん重要なのはこのあとの話なのです。 結局、二度の「大平・ライシャワー会談」のあとも、「佐藤・ライシャワー会談」の あとも、さらには牛場や東郷が密約文書について、アメリカ側からはっきりその解釈を伝えられたあとも、日本政府は、 「核兵器を積んだアメリカ艦船の寄港は事前協議の対象であり、日本に無断で寄港することはない。したがってこれまで一度も寄港したことはない」 という解釈を変えず、国会でも同じ答弁をつづけました。それが明らかなウソであることを知ったあとも、ずっと同じ立場をとりつづけたのです。 日本政府はその後、現在まで、この明らかなウソを一度も訂正していません。 広く知られているように、アメリカの核戦略の基本は1958年以降、核兵器があるかないかを「肯定も否定もしない」(Neither confirm nor deny)という「NCND政策」にあります。(*5) ですから日本に寄港する船だけが核兵器を積んでいないとアメリカ政府が保証することなど、絶対にありえないと世界中が知っているのです。 それにもかかわらず、日本政府はずっと国会で、 「事前協議がない以上、核兵器を積んだアメリカの艦船が日本に寄港することは絶対にない」 という百パーセントのウソをつきつづけたのでした。 歴史をふりかえると、この「核兵器を積んだアメリカ艦船の寄港」についての、半世 紀以上におよぶ国会での明白な虚偽答弁こそ、その後、自民党の首相や大臣、そして官僚たちが平然と国会でウソをつき、さらにはそのことにまったく精神的な苦痛や抵抗を感じなくなっていった最大の原因だといえるでしょう。 (*5)その後、アメリカは一九九一年の政策変更(「ブッシュ・イニシアティブ」)により、翌一九九二年以降は核兵器の 艦船への配備を、原子力潜水艦に搭載するSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)以外は中止したとしています。け れどもあくまでそれは「平時」の話であって、米軍が必要と判断したときは、空母や戦闘爆撃機によって、いつで も日本国内に核兵器を持ち込める態勢を維持しつづけています
矢部 宏治