密約をめぐる「日米間外交」のドタバタ劇…明白なウソをつきつづけていた日本政府
秘密の取り決め
そもそもの始まりは、この年の1月のことでした。ライシャワー大使が日本政府に対し、米軍の新型原子力潜水艦「ノーチラス」の日本への寄港を正式に要請したことをきっかけに、日本の港に入港しているアメリカ艦船のなかに、核兵器を積んでいる船があるのではないかという疑惑が国会で大きな問題となったのです。 この騒ぎがなぜそこまで大きくなったかというと、その理由は3年前(1960年)、 岸政権のもとで行われた安保改定にありました。 そのとき「対等な日米新時代」のまさに象徴として、日本に配備される米軍の重大な軍事上の変更については、日本政府が事前に相談を受けるという「事前協議制度」が新設されており、新安保条約の付属文書(*1)で合意されていたのです。 それは当時日本国内で、占領時代となにひとつ変わらず傍若無人に行動していた米軍の動きに歯止めをかけ、失われていた国家主権を回復するための、安保改定の最大のセールス・ポイントだったのです。
深刻な認識の違い
ですからこの1963年に大問題となった、核兵器の持ち込み疑惑に関する野党の追及に対し、池田首相は、 「核弾頭を持った潜水艦は、私は日本に寄港を認めない」(3月6日・参院予算委員会)、 志賀健次郎防衛庁長官は、 「〔アメリカの艦船が〕日本の港に寄港する場合においては、核兵器は絶対に持ち込ん では相ならぬ、かように〔=そのように〕固い約束をいたしておる」(3月2日・衆院予算委員会) と国会で述べて、どちらもその事実を明確に否定しました。 ところが実際には、核兵器を積んだアメリカの艦船は、すでにその10年前の1953年から、ずっと途切れることなく横須賀や佐世保に寄港しつづけていたのです。それもただの寄港ではなく、補給をしたあと日本海や東シナ海、フィリピン海域へ展開し、そこからたとえば爆撃機で平壌を核攻撃する演習などを行っていました。(*2) それなのになぜ、それほど深刻な認識の違いが起きていたのか。 実は安保改定時に新設された事前協議制度には、正式に結ばれたオモテの取り決めのほかに、ウラ側で合意された「秘密の取り決め」があったのです(→『知ってはいけない2』第二章)。 1960年1月6日、つまり新安保条約がワシントンで調印される(同1月19日)約二週間前に、当時の藤山愛一郎外務大臣が東京の外務省本省で、マッカーサー駐日大使とその文書にサインしていました。 その密約文書によって、核兵器を積んだ米軍の艦船が日本の港に寄港することは、すでに了承済みだとアメリカ政府は考えていたのです。 そのため池田首相たちの発言を問題視したラスク国務長官は、ケネディ大統領も出席した重要会議でこの問題を検討し、その結果、ライシャワー大使が大平外務大臣に直接会って説明をすることになったのです。 * (*1)通称「岸・ハーター交換公文」。正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約〔=新安保条約〕第六条の実施に関する交換公文」 (*2)『「核兵器使用計画」を読み解く』(新原昭治 新日本出版社)