ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (11) 外山脩
彼の生家は県内の農村地帯の素封家だった。十一歳の頃、母親が縁者の家を訪問中、発病、そのまま同家で療養していた。そこへある日、見舞いに行く。その旧家の庭先、母の病室の近くで何げなく佇んでいると、晩秋の透明な光の下に、突如「錦絵に見るような美少女」が現れ、柿の実を一つ、手のひらに乗せてくれた……。 少年は呆然としていたらしい。初恋が始まった瞬間である。これが、彼のその後の人生を決めることになる。 右の歌にあるように、その初恋は胸に包まれたまま、歳月は過ぎ去って行った。少年は、いつの間にか青年期に入っていた。少女も適齢期になっていた。 南樹が、来年は徴兵検査という夏、そのおたつさんが嫁ぐことになった。堪え切れなくなった南樹は、故郷を離れて上京、東京専門学校=後の早稲田大学=の文科に入った。真面目な学生生活ではなかったようだ。 七年後、山形に舞い戻った。「おたつさんと、もう一度会いたかった……せめて、その姿を、ひと目見たかったから」という。 南樹は地元の新聞社の記者をしながら、その機会を待ち続けた。しかし再会は叶わず、一年足らずで一人、横浜から……となったのである。 別掲の写真は、後年、南樹が訪日した時、再会したおたつさんである。その時、南樹は五十五歳であった。おたつさんもそれに近い年齢であった筈であるが、それでいて写真の様な若々しい美人ぶりである。少女期あるいは娘時代については説明の要はあるまい。 南樹はチチカカの湖畔で、傷心を癒すつもりであった。 もっとも性格的には、陰気に落ち込むタイプではなかった。三等船客であったが、ティー・タイムになると船中でできた友人と、憚ることなく階上の一等船客用のデッキへ、遊び半分駆け上がった。 そこでは、船客たちが白い軽装で、椅子に身を投げかけたり、双眼鏡で水平線を眺めたりしていた。その中に白髪混じりの短髪の紳士がいた。何か重大事を抱えている様子ではあったが、いつも悠揚迫らず、唇の辺りに微笑を浮かべ、ゴマ塩の髭を抜き取りながら、話をする人物だった。老成、重みを感じさせ、人を魅惑するところがあった――というのは、あくまで南樹の観察である。 これが水野龍であった。南樹はこの水野と親しくなり、誘われて予定を変更、ブラジルに同行することにしてしまう。 ところで、この水野とは何者だったのか? 一応、実業家ということになっていた。が、大した実績はなく、逆に日露戦争の戦地用の缶詰の生産を企てて大損をするという〝戦果〟を上げていた。 南樹と会った時は、日本移民をブラジルに送り込もうとしていた。同年の八月、外務省から発表された杉村報告書を読んで、飛びついたのである。といっても、移民事業に関する経験はなかった。東京に皇国殖民という大層な名称の会社を設立していたが、実際は個人事務所に近かった。資金もなかった。ブラジルを視察、事業を具体化すべく、ともかく船に乗ったものの、旅費は他人からの借金で賄うという有り様だった。 そのくせ体裁を気にして、一等船室におさまっていた。が、随員までは用意できず単身であった。その水野の目にとまったのが南樹である。手兵にしようとしたのだ。 前記の友人は南樹に注意したという。水野に利用される危険を感じ取っていたらしい。ほかにも同じ意見の同船者がいた。 しかし水野、かつては自由民権運動の壮士として、政治家をめざしたこともあって、話術は巧みであった。二言、三言……話している内に、聞き手を自分のペースに引き込んでしまう才があった。南樹に杉村報告書を渡して、それを読むよう勧め、読み終えたところを狙って「ブラジル日本移民の先駆になれ!」と扇動した。 南樹は、これに軽々と乗ってしまったのである。もっとも本人は「水野に騙されたわけではなく、自分で判断した」と、その著に記している。 それはともかく、かくして同行することになった二人は、チリで船を下り、ら馬でアンデスを越した。 といっても、実はアルゼンチン行きの鉄道は通じていた。が、それが日に一便で、出発までに大分、間があり、待って退屈している時に「現地の人間に、ら馬旅行を唆された」と、後に水野は人に語っている。(このら馬は当然、馬子つきであった筈) 四十代の半ばを過ぎた、当時としては初老の、しかも大事を抱えている身としては、明らかに軽率であった。(つづく)