阪神・鳥谷2000本安打達成の裏にあった引退覚悟と365日間続けた努力
昨年オフに大阪市内のホテル行われた球団納会を前に金本監督は、そのホテルの一室を借りて鳥谷と福留の2人と面談をしていた。金本監督は、「二塁・鳥谷」「一塁・福留」のプランを抱いていたが、遂行を前に本人達の考え方を確かめたかったのである。 鳥谷は二塁コンバートを拒否、「ショートで勝負させて欲しい」と信念を譲らなかった。 「ここで踏ん張れるかどうか。野球人生のポイント。ダメだったら辞めるしかない。できれば何年もできる」。2014年オフに海外FA権を行使してメジャー移籍に挑んだが、交渉が成立せず阪神と2019年までの5年の長期契約を結んだ。試合に出ずとも、年俸が下がることがないが、残り2年の契約を捨ててでも引退する覚悟があったという。鳥谷の親しい関係者からも「ダメなら本気で引退すると思う」という話も聞いた。 動体視力を高めるトレーニングに取り組み、知らぬうちにバッターボックス内で投手に対峙する体の向きが微妙にゆがんで狂っていたバッティングを修正、本来のスタイルに戻す作業に終始した。 だが、「同じ力なら若手を使う」と、金本監督が鳥谷に高いハードルを設けたキャンプでは、まだ本格的な実戦がスタートする前に、遊撃競争は、北條の右手が挙げられ、二塁へのコンバートを余儀なくされた。三塁を予定した新外国人のキャンベルが、ケガで開幕に間に合わなくなると、わずか1週間で三塁へ回された。 正当な遊撃競争だったとは言いがたい結末だったが、鳥谷は愚痴ひとつ漏らすことなく、三塁のプロフェッショナルになることを追求した。そして、その北條には、「俺は何も思っていない。何も気にすることなくプレーすればいいんだ」と、優しく言葉をかけた。 勝負のシーズンで鳥谷は打率3割をキープするまでに完全復活、2000本安打をやってのけたのである。 2003年のドラフトで早大から自由枠で入団した。「(入団時に)2000本を目標にはなかったですし、打てるとも思っていなかった」と、会見で語ったが、確かに、その入団会見時には、現監督の金本知憲をプロでの理想像に挙げ、「試合に出続けること」をモットーに掲げた。 そしてアピールポイントを聞かれ、「ケガに強いこと」と答えていた。その言葉通りに、歴代2位となる1877試合もの連続試合出場記録を続けている(1位は元広島・衣笠祥雄氏の2215試合)。ショートという過酷なポジションを考えると並大抵な記録ではない。 骨折や肉離れ……この14年間に鳥谷を襲ったケガは数しれない。