「佳子さまは『お怪我は大丈夫ですか?』と…」人間国宝・山岸一男が語る〈輪島塗と能登“二重被災”〉
全壊した輪島市の自宅
山岸氏自身、地震で輪島の自宅が全壊した被災者だ。現在は2次避難先である金沢市のマンションで輪島塗の作品を作っている。 9月の豪雨では、輪島の自宅車庫に土砂が流入。輪島市の住民はいま、“二重被災”に苦しんでいる。 「豪雨では中学3年生の女の子が命を落としましたが、彼女の祖父は輪島塗の職人さん。私もよく知っている方ですから、衝撃を受けましたし、大変心を痛めました。なぜ1年間に2回もこれほど大きな災害に襲われるのか、せっかく復興に向けて少しずつ歩み始めたところだったのに……。そんなことを言っても仕方がないのですが、悔しい思いでいっぱいです」 取材班は豪雨の前から山岸氏に密着していた。8月5日、金沢市のマンションを訪ねて取材をスタート。マンション内に設けた工房で、制作途中の作品に、実際に刃物で文様を刻み、溝に金箔を押し込む沈金の技法をやってみせてくれた(下の写真)。 その際、数十本もの沈金刀はじめ、1976年の日本伝統工芸展で初めて入選した≪沈金草花文色紙箱≫を制作した際に、自らデッサンしたナナカマドの花の下絵も取り出してくれた(下の写真)。 だが、仮設の工房ならではの悩みも吐露していた。 「道具はすべて自宅からこちらへ持ち運びました。長年作業していた輪島の工房では、目をつむっていても、どこにどんな道具があるか把握していましたが、仮設工房はまだ慣れないですね。そもそも、日本家屋とマンションでは室内の湿度が違います。漆の作品は、365日24時間、温度と湿度を厳密に管理する必要があるので、その調整も難しい。試行錯誤しながら、制作に取り組んでいるところです」
輪島朝市は“焼け野原”に
気兼ねなくインタビューに応じてくれた山岸氏の様子が一変したのは、翌8月6日のことだ。この日、レンタカーを借りて輪島市に向かった。地震により各地で陥没していた能越自動車道はようやく通行止めが解除され、1週間前に両側通行が可能になった。だが、輪島市内に到着すると、全壊した建物があちこちにあり、まだまだ復興には程遠い現状。自宅が近づくにつれ、山岸氏の表情が曇っていった。 「そこの十字路をまっすぐ進むと私の家です」 山岸氏はそう言って道案内してくれたが、道路は大きく隆起し、車が通ることはできない。一本手前の道を曲がり、自宅前に車を止めると惨状が広がっていた。隣の家は全壊しており、無数の瓦礫が駐車場に停めた軽自動車を押し潰している。テレビでよく目にした市内中心部にある7階建てのビルも、基礎部分から横倒しになったまま(上の写真)。被災から半年以上経っているものの、ほぼ何も変わっていないのではと思われる光景だった。 山岸氏の自宅玄関のドアも大きく斜めに傾き、正面から邸内に入ることはできない。山岸氏は庭から敷地内に入ると、粉々になったガラスドアをこじ開け、土足で部屋の中に入った。 「お正月の準備をしていたけれど、全てダメになってしまいました」 床の間の壁は剥がれ落ちて内部の断熱材はむき出しとなり、初日の出が描かれた掛け軸は破れている。居間の壁には<新しい風>と記された、孫娘の書初めが掛けられていた。 「地震直後の記憶ははっきりしませんが、天井に吊り下げていた蛍光灯が落下して頭を直撃しました。ハッと意識が戻ると、同居している息子の妻が『お義父さん、早く逃げなきゃ!』と助けに来てくれ、すぐに家の外に避難したのです」 仕事机の前に腰かけた山岸氏は、こう溢した。 「前を向かなきゃいけないけど、この現状を見ると、やりきれないよね……」 この日は、地震直後の火災で全焼した「輪島朝市通り」も訪問した。だが、建物は一つもなく、文字通り“焼け野原”で、通りに200以上の露店がかつては並び、毎朝多くの人で活気を帯びていたとは信じられないほどだ。山岸氏も「これは酷いもんだね……」と呟くばかりだった。