ロシアとトルコ 撃墜事件でよみがえる500年来の対立の歴史
トルコのNATO加盟と冷戦
この脅威認識は、オスマン帝国がトルコになり、ロシアがソ連に代わっても続きました。第二次大戦が終わった1945年には、ソ連はトルコに対する領土要求を突き付けます。ソ連と国境を接するトルコ東部のカルスとアルダハンという2つの地域を要求します。トルコは、これを拒絶します。そして欧米諸国に接近します。1949年にNATO北大西洋条約機構が成立すると、トルコは加盟を申請します。しかしながら、西ヨーロッパ諸国はNATOの範囲をトルコにまで広げるのに冷淡でした。その西ヨーロッパ諸国を説得するのに一役買ったのが朝鮮戦争でのトルコ軍の奮戦でした。 1950年に朝鮮戦争が始まるとトルコは国連の要請に応えて派兵しました。トルコ軍は勇敢に戦いました。これは、小国トルコのソ連に対する痛々しいまでのメッセージでした。侵略を受ければトルコは徹底して戦うという意志表示でした。また欧米諸国に対してもトルコが信頼に足る同盟国であると、証明しました。その結果、欧米諸国は、1952年にトルコのNATO加盟を認めました。 朝鮮半島で停戦の成立した1953年までの期間に、結局1万5000人のトルコ軍将兵が朝鮮半島で戦いました。トルコ軍は勇敢な戦いぶりで賞賛を集めました。しかし1000人近い死者と行方不明者を出し、また2000人以上が負傷しました。合計で3000人が、戦死したり、行方不明になったり、負傷したわけです。派遣兵力の二割が犠牲となりました。トルコ軍の血みどろの闘いぶりでした。あたかも流されたトルコ将兵の血がNATOへの入場料であったかのようでした。現在でも朝鮮半島南端の釜山の国連軍墓地に多数のトルコ軍兵士が眠っています。 NATOに加盟後は、トルコはアメリカの空軍基地を受け入れました。また核兵器を搭載したアメリカの中距離弾道ミサイルの持ち込みを許可しました。NATOの忠実なメンバーとして冷戦の最前線を守っていたわけです。その結果、ソ連との関係は険悪でした。 しかし冷戦が終結し、ソ連邦が崩壊するとトルコとロシアの関係は改善されます。トルコはロシアのエネルギーを必要とし、ロシアはエネルギー市場としてトルコを重視しているからです。現在トルコの消費する天然ガスの6割近くがロシアから送られています。両国は経済的な相互依存関係にあるのです。