「ウチをスパゲティ屋とカン違い」とカップル客の愚痴…イタリア料理店炎上に、有名店主が覚えた“既視感”
愚痴を言っている彼らも、重々わかっていたこと
しかし、そんな弱音をじれったく思っていたのも確かです。「甘いんだよ」とでも言いたくなる気持ちもありました。「それがあんたの選んだ道だろう?」と。でも決して口には出しませんでした。なぜなら、彼ら自身もそれが「甘え」であるということ自体は重々わかっていそうだったからです。 その代わり、ちょっと無責任な提案を行ってみたりもしました。 「ちゃんとイタリアンらしいオーダーをしてほしいんだったらさ、夜のメニューは思い切ってプリフィックスコースだけにしたら良くない?」 彼らはその場では、それも良いかもねえ、なんて言いますが、実行に移されることはありませんでした。なぜならそれをした瞬間、「スパゲッティ屋のつもりで来る若いカップル」は二度と来なくなるからです。愚痴は言いつつも、そんな人々無しに経営が成り立たないことは、彼らも百も承知だったことでしょう。 「ペペロンチーノもカルボナーラも、『現地風』と『日本風』の2種類ずつメニューに置くってのどう? みんなのカルボナーラ950円、本場風カルボナーラ1,300円、みたいな」 これは割と真面目な提案のつもりだったのですが、酒の席での与太話として、笑いと共に深夜の空気に溶けていっただけでした。 余談ですが、その後この「現地風と日本風の2種類ずつをメニューに置く」というアイデアを、自分たちのエスニックカフェで採用したことがあります。全てのメニューというわけではありませんが、トムヤムクン、ヤムウンセン、ガパオ、といった定番メニューに関しては、現地の味そのままを再現したものと辛さやクセを抑えた食べやすいものを両方メニューに載せたのです。 この話はこの話でちょっと面白いのですが、本題から逸れすぎるので、またいつか機会があったらお話ししましょう。
最近SNSで起きた、イタリアンレストランの「炎上」
早いものでそれから20年以上の年月が経ちましたが、この状況は実のところ今もそんなに大きく変化していないような気もします。 つい最近もSNSで、イタリアンレストランでパスタしか頼まなかったらお店の人に冷たくされた、みたいな投稿に大量の賛否が集まり「炎上」しました。恐ろしいことにその店は特定され、その気取らないカジュアルな店内写真は「こんな喫茶店に毛の生えたような店のくせに偉そうだ」という、血も涙もない「個人の意見」と共に拡散されました。 また別のあるお店では、メニューが「冷前菜」「温前菜」「パスタ」「メイン」の4ページに分かれているのですが、最初のページの一番目立つ位置に「2名様でしたら各ページから1品ずつお選びください」というような内容が明記されています。そして更に、同じ文言がパスタのページにもう一度、黒く太い枠線で囲まれて念を押すように登場します。 正直ちょっと警戒心過剰なようにも見えなくもありませんが、その店はこぢんまりとした家庭的な雰囲気の店であることもあって、そこまでしないと「スパゲッティ屋さん」と誤解される恐れが今もあるということなのかもしれません。 もちろんこれらの事例は、単に、イタリアンレストランでの注文の仕方を親切に教えてくれている、と解釈することも可能です。 とみに最近は、先輩が後輩を「大人の店」に連れ回すようなことや、男子が女子をデートに誘うために「デートマニュアル」を読み込んで必死に予習する、みたいな風潮が失われており、お店での適切な振る舞い方が伝承されにくくなっている面もあるのかもしれません。 料理そのものに関しては、ある種の定型化がますます進んでいるようにも見えます。鮮魚のカルパッチョ、シーザーサラダ、生ハム、日本式カルボナーラ、ピッツァマルゲリータ、ティラミス、みたいな世界です。イタリア料理が日本人みんなのものになった結果、好まれやすい料理とそうでない料理は明確になり、その当然の帰結としてメニューや味は画一化していきます。 都会ならまだ、個性的で「尖った」店が一部で成立しますが、それはあくまで一部ですし、地方に行くに従って、そして地域密着型の店は特に、そういう画一化、言い換えれば「最適化」への圧からは逃れにくくなります。 イタリア料理を取り巻く一般の環境は、90年代において既に成熟し、その時点から現在に至るまで実はあまり変わっていないのかもしれません。
稲田俊輔