滝川事件「前夜」津幡に資料 京大の左翼運動記した手紙 学生課長の住職残す
●昭和100年、戦後80年を前に大学で公開 戦前の京大を舞台とし、昭和史に残る言論弾圧事件となった「滝川事件」前夜の学生による左翼運動を記録した資料が30日までに、津幡町上河合の真宗大谷派慶専寺(きょうせんじ)で確認された。先々代住職が京大に勤務した際、学内の運動の実態を把握するためやりとりした手紙だ。思想弾圧が強まる中、日本は軍国主義をひた走り、太平洋戦争に突入した。来年は「戦後80年」で、昭和改元から100年。寺から資料の寄贈を受けた京大文書館は、戦前の空気を伝える歴史的価値があるとして公開を始めた。 【写真】京都帝大で学生課長を務めた谷内正順 資料は、慶専寺住職で京都帝大(現京大)学生課長を務めた谷内正順(たにうちしょうじゅん)が残したもので、谷内が大学に勤務した1927(昭和2)~32(同7)年の間にやりとりした手紙など291点。左翼運動に加わる学生について文部省や他大学と情報交換した書簡や、処分を受けた学生の近況を伝える保護者からの手紙などが含まれる。いずれも慶専寺の蔵で保管されていた。谷内が京都帝大を退職する際に持ち出したとみられる。 中には「退學願(たいがくねがい)ノ提出ヲ命ジ、之(これ)ニ應(おう)セザル時ハ放(ほう)學(がく)ニ處(しょ)スルモノトス」と学生の退学処分を記載した書類もある。谷内が京都帝大に勤務したのは学生の左翼運動が先鋭化した時期で、大学当局がそうした活動に目を光らせていたことが浮かび上がる。 日本近現代史が専門で、30年以上にわたり京大の歴史を研究する西山伸京大教授は「学生による左翼運動の実態が明らかになり、非常に価値のある発見だ」と話す。 谷内が大学を離れた翌年の1933(昭和8)年、文部省が法学部教授の滝川幸辰(ゆきとき)を共産主義的だとして辞職を求めた「滝川事件」が起きた。西山教授は「時系列的に谷内の退職と滝川事件の関連性は見えない」とする一方、大学自治や言論の自由が制限されていく当時の風潮が手紙に現れているという。 谷内は京都帝大を依願退職した後、実家の慶専寺で住職をしながら、石川県立白山塾県民修練所長や大谷派教学研究所長などを務めた。資料を寄贈した孫の同寺事務局長・谷内正立(しょうりゅう)さん(72)は、帝大時代の手紙などを大切に保管していた祖父の姿を覚えている。 ●若者守るため寺で保管か 正立さんは、手紙には左翼運動に参加した学生の思想信条に関する個人情報が多く含まれているとし、そうした手紙が大学に残ったままでは学生に不利に働く可能性があったのではないかと指摘。「若者を守るため学外に持ち出し、寺で保管していたのではないか」と推測する。 その上で「100年近くたった今、資料を大学に戻すことができて良かった。研究に役立てばうれしい」と話した。 ★滝川事件 1933(昭和8)年、京都帝大法学部教授の滝川幸辰の著書「刑法読本」が無政府主義的だとして、鳩山一郎が文相を務める文部省が滝川の休職処分を一方的に発令した事件。歴史教科書に掲載されている。法学部教授の大半が抗議の辞表を提出したが、文部省は滝川ら8人のみを退官させ、刑法読本は発禁処分になった。弾圧対象が自由主義思想にまで拡大する契機になったとの指摘もある。 ★谷内正順 1886(明治19)年、現津幡町の慶専寺で出生。県立第三中(現七尾高)、旧制第一高を経て東京帝大を首席卒業し、明治天皇から「恩賜の銀時計」を授与された。石川師範学校(現金大)教諭などを歴任し、1968(昭和43)年に82歳で死去した。