織田信長を裏切った愚かな義弟・浅井長政は実は信長も一目置いた、未来を嘱望された知勇の将であった【イメチェン!シン・戦国武将像】
亮政(すけまさ)・久政(ひさまさ)・長政(ながまさ)の三代にわたって50年の間、北近江を統治した戦国大名浅井家。その最後の当主・浅井長政(あざいながまさ)は、織田信長の妹・お市(いち)を娶(めと)ったのものの、信長との友好関係を裏切り、果ててしまった、というイメージが強いが、実は信長は長政を高く評価しており、織田家をともに盛り立てようとしていた、というぐらいの実力者であったという。 浅井長政は、その実力と実績からみても過小評価されすぎている武将であろう。長政の武将としてのイメージは、織田信長の妹・お市との婚姻して織田一門になったにもかかわらず、越前・浅井氏との絆を大事にして滅ぼされた「愚かな義弟」が一般的であろう。しかし、実は長政は信長に勝るとも劣らない知謀と戦略、勇猛果敢な武将であった。むしろ、信長が長政のこうした武将としての実力を読み切って、妹・お市との婚姻を進め、取り込みたいというのが、この「政略結婚」による「織田・浅井同盟」の本質であった。 長政の浅井家は、元来が北近江浅井郡の豪族の1人であって、守護家の京極氏に仕えていた。南近江の支配者は六角(ろっかく)氏であって、京極家とは同じ「佐々木氏」を先祖に持つ。この佐々木氏出身の両氏が近江の派遣を巡って争った。その時期に長政の祖父・亮政が生まれ成長して、北近江の浅井家として台頭する。以後、六角氏とは見方になったり敵になったりする関係を保ってきたが、遂に浅井氏が立ち上がった。 長政は15歳で初陣を果たした。相手は六角勢の2万5千。長政は半分以下の軍勢1万1千を率いて戦った。永禄3年(1560)8月の「野良田合戦」である。 この北近江・野良田での浅井・六角の決戦に先立つ3カ月前。信長が今川義元(いまがわよしもと)を破る「桶狭間(おけはざま)合戦」があった。信長は、今川勢2万五千に対して5千という寡兵で奇襲して義元の首を挙げた。この信長の奇跡的な勝利を知った長政も、大軍・六角勢何するものぞ、という気になった。長政15歳、信長26歳であり、2人には11歳の年齢の差があった。 「野良田(のらだ)合戦」はその後の近江周辺から京都至る勢力図を一変させる戦いであった。京・大坂などでは、桶狭間合戦よりも野良田合戦の方が大きく話題になったともいう。いずれにしても、15歳にして一躍戦国乱世に名乗りを上げた形の、浅井長政に信長も目を付けた。今が義元を討ち取っても、まだ四面楚歌の状況にある信長には、長政が大きな存在として映っていた。その結果がお市との婚姻であった。その婚姻に際して長政は「懇意にしてきた越前・朝倉家の領土に踏み込まない」という約束を信長と交わしていた。しあかし、後に信長はこの約束を破棄して越前に侵攻した。 長政は、信長のこうした狡猾で約束すら守れない性格を嫌った。結果として、織田・徳川vs浅井・朝倉による「姉川(あねがわ)合戦」になる。この姉川合戦では、織田軍と真っ向から勝負した長政の浅井勢8千は、織田軍3万による構え13段を11段まで打ち破り、信長の本陣に肉薄した。しかし朝倉勢と退陣した徳川勢がこれを敗ったことから形勢が逆転した。 これが長政の事実であり、最も信長を戦慄させた武将こそ、その義弟・浅井長政であった。歴史に「もしも」はあり得ないが、もしも長政が生き残っていたら、信長のその後の怒濤の生涯はなかったのではないか。イメージチェンジによって、そう思わせる武将である。
江宮 隆之
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