「原爆の父」オッペンハイマーの足跡をたどってみた、核兵器の始まりの地から晩年の島まで
ネバダ核実験場
米国政府は戦後も核実験を続け、その威力はますます大きくなっていった。実験は当初、太平洋で行われたが、のちにネバダ核実験場で行われるようになった。 ネバダ核実験場は、ラスベガスの北西約100キロのところにある。ラスベガスは今でこそギャンブルの街だが、当時は僻地だった(ラスベガスの繁華街にある「ビニオンズ・ギャンブリングホール」の26階では、かつて観光客たちが、核実験によるビルの揺れで、「アトミック・カクテル」が揺れるのを眺めていた。今も、このレストランで食事をすることができる)。 ネバダ核実験場では、30年以上にわたって、1000を超えるガジェットの子孫が爆発をくり返してきた。オッペンハイマーがここに足を踏み入れた形跡はないが、核兵器の悪夢を象徴する場所として、オッペンハイマーの物語からこの場所は外せない。 「戦争を重ねる世界の新たな武器に原子爆弾が加わることになれば、人類がロスアラモスとヒロシマの名前を呪いとする時代が来るだろう」。1945年、オッペンハイマーはそう言った。 「基本的に、オッペンハイマーはマンハッタン計画後の核実験に反対していました」。ラスベガスの核実験博物館の副館長兼キュレーターであるジョセフ・ケント氏はそう話す。「マンハッタン計画は必要だと考えていましたが、さらに破壊力の強い水爆の研究が始まったことには、耐えられなかったのです」 博物館は、ラスベガスの目抜き通りであるラスベガス・ストリップから数ブロック離れたところにある。25周年を迎えた博物館のロビーに立つと、出迎えてくれるのは、丸く巨大な「ファットマン」の模型だ。ニューメキシコ州で見たガジェットと同じタイプの核爆弾で、1945年に作られた。 核実験博物館はスミソニアン系列の博物館で、主にネバダ核実験場(正式名称は「ネバダ国家安全保障施設」)のビジターセンター的な役割を果たしている。博物館と核実験場の関係は現在も続いており、月に一度、50人程度の歴史好き向けに、バスで行く無料の8時間ツアーが開催されている。 まず、1時間ほどかけて国道95号線を北上する。その道中、なぜこの場所に実験場が作られたのかを聞くことができる。広く平らな谷がたくさんあるので、爆発が山地によってさえぎられ、関係者以外の目にとまることがないからだ。 ツアーの一番の目玉は、セダン・クレーターだ。深さ約90メートル、幅約360メートルほどのクレーターは、運河や港湾の建設に核爆弾を安全に使えるかどうかを確かめるため、104キロトンの爆弾を爆発させて作ったものだ。その答えは、「できない」だったようだ。 のちほど、セダン・クレーターで撮った集合写真を送ってもらえるが、記念品はそれだけだ。ネバダ核実験場ツアーでは、岩石のサンプルを持ち帰ったり、カメラを持ち込んだりすることはできない。