「原爆の父」オッペンハイマーの足跡をたどってみた、核兵器の始まりの地から晩年の島まで
トリニティ:最初の原爆の爆心地
最初の原爆の爆心地となったトリニティは、今も年間を通じて、ニューメキシコ州ホワイトサンズ・ミサイル実験場として使われている。だが、年に2日だけ(通常は4月の第1土曜日と10月の第3土曜日)、米陸軍がトリニティ・オープンハウスというイベントを開催している(米陸軍が「不測の事態」と呼ぶ事情により、2024年4月のオープンハウスは中止となっている)。 イベントが行われる日には、アラスカからフロリダまでのナンバーをつけた車が、ホワイトサンズのスタリオンゲートに列をなす。そこから27キロほど南に走ると、円形に張られた金網が見えてくる。オッペンハイマーのガジェットが原子力時代の扉を開いた場所だ。 めったに使われることのない駐車場に車を停め、狭い入口を通って中に入り、円の中心にある真っ黒いモニュメントに近づく。何も言われなくても、厳粛な雰囲気を感じざるをえない。 木一本生えていない野ざらしの場所は、まるで天然のオーブンで、春でも暑い。かつてスペインの征服者たちは、ここを「死者の旅」と呼んだ。しかし、1945年7月16日午前5時30分ちょうどの暑さは比較にならない。その瞬間、太陽の表面温度の半分ほどに達する灼熱の火の玉があたりを焦土と化した。 ガジェットが設置された30メートルの塔は跡形もなくなったが、そのクレーターは今も残されている。広く、驚くほど浅い、皿のようなくぼみだ。一番深いところでも、砂漠の地面がえぐられたのは3メートルほど。30メートルの空気のクッションがあったからだ。 ガイドはたくさんの観光客に、「地面から何かを持ち出すことは、一切禁止されています」と言う。 その「何か」というのは、爆弾の高熱でできたガラス質の人工鉱物「トリニタイト」だ。 この日の主役はトリニティだが、興味のある人は、そこからバスに乗って、爆心地から3キロほどの場所にあるシュミット邸という小さな小屋に行ってみるといいだろう。もともとは食堂だった場所だが、オッペンハイマーはここでガジェットの最後の組み立てを監督した。 むき出しの壁と磨かれた床を持つこの空き家は、やり手不動産業者の修繕を待つ廃屋のように穏やかに見える。しかし、実験の数日前、まさにこの場所で、科学者の一団が慎重にガジェットを組み立てていた。ソフトボール大のプルトニウムのまわりに32個の小さな爆弾が取りつけられた球体だ。 32個の爆弾はすべて同時に点火され、文字どおり、地獄の業火は解き放たれた。