村上春樹 かつて東京・表参道にあった小さな鰻屋さんの猫の思い出「ほかほか幸福な気持ちなれました」
作家・村上春樹さんがディスクジョッキーをつとめるTOKYO FMのラジオ番組「村上RADIO」(毎月最終日曜 19:00~19:55)。11月24日(日)の放送は「村上RADIO~村上の世間話5~」をオンエア。好評の「村上の世間話」シリーズは、村上さんが何気ない日常の中で体験したエピソードを、村上DJが選曲したグッドミュージックとともにお届け。 この記事では、40年ほど前に東京・表参道にあった鰻屋さんでのエピソードを語ったパートを紹介します。
こんばんは……村上春樹です。 今日は恒例の「村上の世間話」。これでたしか5回目になります。あくまで世間話ですから、主張とか問題提起とか教訓とか、そういう立派なものがあるわけじゃありません。だから手仕事でもしながら気楽に聞き流してください。いろり端でせっせとわらじでも編みながら……なんてことは、いまさらもうないでしょうが、ま、そのへんは適当に。話の合間に例によってうちからもってきたレコードやCDをかけます。
<オープニング曲> Donald Fagen「Madison Time」
秋も深まってくると、温かいものが食べたくなってきますね。僕はローマにしばらく住んでいたことがあるのですが、冬場はかなり冷えこみます。床が大理石でできている上に暖房が貧弱だったものだから、家の中にいると寒くて寒くて。毎日温かい野菜スープを作って、それを飲んで暖を取っていました。イタリア語でいうとズッパ・ディ・ヴェルドゥーレですね。近所の野外マーケットで新鮮な野菜を買ってきて、それを鍋にどんどんぶち込んでスープを作ります。これがうまいんです。寒い季節になるとこのズッパのことを懐かしく思い出します。日本で同じように作ってもなんか味が違うんです。たぶん野菜の種類や性格が違うんでしょうね。
◆The Frank Wess Quartet「Star Eyes」
まずは1曲聴いてください。フランク・ウェスがフルートで演奏します。「スター・アイズ」、チャーリー・パーカーの演奏で有名な曲です。バックの練れたピアノ演奏は名手トミー・フラナガン。 <世間話①> 東京に表参道って広い通りがありますね。今では高級ブランドショップがずらりと建ち並んで賑わっています。でもね、昔話になって恐縮なんですが、40年ぐらい前は、ここはけっこう閑散とした通りだったんです。店なんかもあまりなく、人通りもまばらだった。なだらかな坂道に沿ってクラシックな同潤会(どうじゅんかい)アパートがあって、普通の一軒家もあり、お店も床屋さんとか、そのへんのなんてことない喫茶店とか、そんな感じのものでした。原宿はその頃からすでにわいわい賑やかだったけど、表参道の方まで人は流れてこなかったんです。 それで、表参道が青山通りと交差している角っこに交番があるのですが、その近くにかつては一軒の小さな鰻屋さんがありました。店の名前は忘れちゃったけど。僕はときどきそこでお昼にウナギを食べていたんだけど、その店には店付きの猫が1匹いまして、いつもどっかの席でぐっすり昼寝をしているんです。猫はウナギにはまったく関心がないみたいで、匂いがしても、隣で人が食べていても、目を覚ます気配はまったくありません。僕はそういうのんびりした佇まいが好きでした。昼下がり、穏やかに眠っている猫を見ながらウナギを食べていると、なんかほかほか幸福な気持ちなれるんです。でも時は移り、そういう場所もいつしか失われてしまいました。残念です。 (TOKYO FM「村上RADIO~村上の世間話5~」2024年11月24日(日)放送より)