終戦5年後に「二十億光年の孤独」、世紀末に「詩のボクシング」…谷川俊太郎さん星のかなたへ
戦後の時代と伴走するように数々の詩を紡いだ谷川俊太郎さんが13日午後10時5分、老衰のため92歳で死去した。葬儀は近親者で済ませた。人間や宇宙、愛、孤独など世の中のあらゆるものを、70年余りにわたって言葉に刻み続けた詩人の死を惜しむ声が相次いだ。 【写真】自宅の庭でタンポポの綿毛を吹く谷川俊太郎さん(1991年4月)
「万有引力とは ひき合う孤独の力である」――。
谷川さんが代表作「二十億光年の孤独」を文芸誌に発表したのは、戦争の傷痕が色濃く残る1950年だった。その後、60年代の高度経済成長期に入り、「月火水木金土日の歌」で日本レコード大賞作詩賞を受賞したほか、「鉄腕アトム」の歌詞なども手掛けた。
レオ・レオニの絵本「スイミー」などの翻訳は、子どもたちに親しまれた。
20世紀の終わりが近づいた90年代末は、詩人たちが対決形式で作品を披露する「詩のボクシング」など新たな試みにも取り組んだ。
21世紀に入っても、折に触れて作品は注目された。2011年の東日本大震災後、「生きる」と題した詩が注目された。福島市の詩人、和合亮一さん(56)は「戦後から日本の移り変わりや心のありようを見つめた方だった。宇宙的な広がりのなかで真実をくみ取る詩は、被災者に深いものを与えてくれた」と語った。
国際化が進む現代、平易でリズム豊かな詩は世界で親しまれる。詩人の四元康祐さん(65)は19日朝、海外の詩人仲間から追悼メールを受け取った。四元さんは「谷川さんは最晩年まで一貫して、愛を中心に置きながら独自の世界観を提示した。民族や国境を超越した大きなまなざしが(広く)通じたのだろう」と話す。
全国各地で校歌作詞も
谷川さんは全国各地の学校で校歌の作詞を手がけた。福島県大熊町の義務教育学校「学び舎(や) ゆめの森」もそのうちの一校だ。
同校は、東京電力福島第一原発事故による全町避難を経て、2022年度に町立の小・中学校3校を統合して開校した。その前年、児童たちが谷川さんに手紙を書き、作詞が実現。作曲は長男の作曲家・賢作さんが手掛けた。
手紙を送った一人で、6年生の児童(12)は「歌詞の中で『それぞれのあすをさがして きょうのおおきなそらのした』という部分が大好き。初めて校歌を聞いた時、なんて楽しそうな歌なんだろうと思った。これからも大切に歌いたい」と話した。