『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』レポート 300点超の作品で明かされる“孤高の画家”の実像
中央画壇と距離を置き、50歳で移り住んだ奄美大島で独創的な日本画を描きながらも発表の機会なく、無名のまま生涯を閉じた画家・田中一村。近年再評価が高まるなか、その画業をたどる『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』が東京都美術館で開催中だ。会期は12月1日(日) まで。 【全ての写真】300点を超える作品や資料が展示される『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』 田中一村の名を世に広めたのは、没後、3回忌に奄美の人々の手で行われた3日間の展覧会が始まりだ。その4年後の1984年、NHK『日曜美術館』で特集が組まれ、全国的なブームとなる。その後、ゆかりの地にある千葉市美術館、鹿児島市立美術館、田中一村記念美術館の学芸員が共同で本格的に調査・研究し、2010年に回顧展『田中一村 新たなる全貌』を開催。各地に残っていた一村の作品や情報が多く寄せられるようになり、実像が明らかになってきた。14年ぶりとなる今回は300点を超える作品や資料を展示。第1章「若き南画家『田中米邨』東京時代」、第2章「千葉時代『一村』誕生」、第3章「己の道 奄美へ」の3章で構成されている。 奄美にたどり着くまではどんな道を歩んできたのだろうか。まず第1章「若き南画家『田中米邨』東京時代」では、1908(明治41)年栃木県に生まれ、東京に移った少年期から青年期までをたどる。彫刻家の父から書画を習い、数え年8歳で「米邨」の号を受け、周囲から「神童」と呼ばれた田中一村(本名 孝)。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学するもわずか2か月で退学してしまうが、人脈や地縁を背景に、南画(中国にルーツを持つ古典絵画)で、画家として身を立てていく。 20歳代初めには弟の死や、新しい画風が受け入れられなかったことなどから「寡作の空白期」とされていたが、同時期に描かれた《椿図屏風》などが見つかり、模索を続けていたことがわかってきた。金屏風は支援者が用意したものと思われるが、それまでの中国風の絵画から、観察に基づく細密描写も見られる。なお、右隻だけで筆を止めた理由は判明していない。 続いて第2章「千葉時代『一村』誕生」では、30歳で千葉市千葉寺町に移り住んだ時代をたどる。父が死に、親戚・川村家を頼り、家を建てて、姉と妹、祖母とともに転居。農作業をしながら、自然風景を描く。絵付けした房州うちわや着物の帯などから、画家の生業や周囲の支援も見えてくる。 第二次世界大戦を経た1947年、39歳の時に「柳一村」の名で出品した《白い花》が、川端龍子が主催する「第19回青龍展」で初入選。しかし、翌年「田中一村」の名で出品した自信作《秋晴》が落選し、参考作品《波》が入選すると、激怒した一村は《波》の入選を辞退してしまうのだった。《白い花》について、同展を企画した学芸員・中原淳行(東京都美術館学芸担当課長)は、「光の描写に後の奄美へのつながりを感じる。なぜ奄美に行ったのかは語られていないが、奄美の光の決定的な影響があったのではないか」と語る。 なお、日展や院展など公募展では落選が続いたが、依頼されて制作した屋敷の襖絵や天井画などは見事だ。九州・四国・紀州を旅し、画風に変化の兆しも見られる。 最後の第3章「己の道 奄美へ」では、1958年、50歳で心機一転、姉と別れ、奄美大島に単身移り住んだ時代をたどる。与論島や沖永良部島を旅した翌秋、国立療養所奄美和光園の官舎に間借りする。金銭が尽きたのか一時千葉に帰るが、1961年、不退転の決意で再び奄美に戻り、紬工場で染色工として5年間働き、その後3年間は絵に専念した。この間に奄美時代の主要な作品が描かれたとみられる。 ようやく独自の画風を築いた一村だったが、1977年、心不全で69年の生涯を閉じた。晩年の双璧ともいえる《アダンの海辺》と《不喰芋と蘇鐵》はともに展示されている。海面の光、暗がりの森に見える光。筆者は奄美大島を訪れたことがあるが、島の歴史の光と影も感じられる。 中原は「一村は晩年、『最後は東京で個展を開催し、絵に決着をつける』と綴っており、東京藝術大学在校中に開館し、その後もここを会場とする公募展に出品するも落選し展示が叶わなかった東京府美術館、現在の東京都美術館で展覧会を開くことには意味があると考えています」と語る。「生きる糧としての美術」をミッションの一つに掲げる同館で、自分にとって大切なものを守り抜く生き方や、未評価の作家を支える人々にも目を留めたい。 取材・文・撮影:白坂由里 <開催概要> 『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』 2024年9月19日(木)~12月1日(日)、東京都美術館にて開催