92歳の映画監督・山田火砂子「社会福祉、女性の地位向上、戦争…全部自分が当事者だった。新作では知的障がいのある両親と娘の成長を描く」
◆子どもを手放せ、という誘い これまで映画で取り上げてきたテーマは、社会福祉、女性の地位向上、戦争……と一貫していると思います。どれも私自身が当事者だからなんだよね。 戦争は、なにより嫌いです。私が生まれたのは1932年。五・一五事件が起こった年で、日本が軍国主義に突き進んでいた時代でした。 やがて第二次世界大戦が勃発。私は東京生まれで、下町が壊滅的な被害を受けた45年3月10日の東京大空襲は免れたものの、5月24、25日の山手大空襲でやられました。 東京大空襲では約300機のB29が焼夷弾を落としたけど、山手大空襲では各日450機以上が飛んでたの。空襲警報が鳴って夜の町を逃げながら空を見上げると、あんなにたくさんの飛行機同士がよくぶつからないなあと思うくらいだった。 次の瞬間、焼夷弾がバラバラと落ちてきて、あたり一面にぶわ~っと一斉に火がついて真っ赤になった。半分焦げた死体やら、火ぶくれだらけで歩いている人やらで、あの光景を描けと言われたら描けるくらい。忘れたくても、忘れられないですよ。今でも打ち上げ花火は、怖くて泣いちゃう。
終戦後、女学校に行くも女優になりたくて、エキストラや小さな役をやりながらチャンスを待ちました。ジャズにハマり、18歳のころに女性バンド「ウエスタン・ローズ」を組んで。進駐軍のクラブに出入りしてお金を稼ぎました。その後は軽演劇の舞台に出るようになり、女3人でコントをやったりして。人気あったんですよ。 29歳で結婚して、生まれた娘が2歳のころ、病院で知的障がいがあると診断されました。いまと違って情報もないし、最初はびっくりしてね。正直、私にも恥ずかしいという気持ちがありましたよ。こればかりは、育てたことがない人にはわからないと思う。知的障がいのある子どもを育てるのは、そりゃあ大変なものです。 次女が生まれたあと離婚したんですが、そのころは喫茶店もはじめていて、子育てをしながら店に立っていました。そうしたらNHKの人が「喫茶店のママで終わらせたくない」とスカウトにきてくれた。 得意の喜劇的な演技で「スターにしてあげる」なんて言うから、三の線の女優で復帰しようって私もすっかりその気になってね。 ところがその条件として、子どもを手放せ、と言われてしまった。当時は里子に出すなんてことが当たり前に行われていたからね。次女は健常者だし、いくらでももらい手があるって。じゃあ長女はどうするんだ。どっちも手放すなんてとんでもない、と断りました。 (構成=篠藤ゆり、撮影=洞澤佐智子)
山田火砂子