袴田さん再審無罪が確定、事件の刑事責任はもはや追及不可 立ちはだかる「公訴時効」、本当に必要なのか?
●袴田さんの現状「法曹の1人として大変恥ずかしい」
まず、袴田さんを長期間拘束し、さらに死刑と毎日直面せざるを得ない状況としてしまったこと、法曹の1人として大変恥ずかしく感じます。袴田さんが穏やかな日々を過ごされることを心から願っています。 冤罪事件は、やってもいない罪で人を裁くという、被告人にとってとても重大な人権侵害です。ただ、被害者や遺族にも冤罪事件は影を落とします。真犯人を取り逃がすことが多くなるからです。 冤罪事件は、被告人にとっても、被害者や遺族にとっても、万が一にもあってはならないことです。
●公訴時効が存在する趣旨とは
しかし、この事件の真犯人は、刑事裁判で裁かれることはもうありません。 1966年に起きた事件は、当時の法律(2004年刑訴法改正前)により、公訴時効が完成してしまいました。2010年改正により殺人罪の時効は廃止されましたが(刑訴法250条1項)、すでに時効完成している事件には適用されず、時効は完成したままになります。 公訴時効が完成すると、有罪判決は出されず、免訴判決というのが出されます(刑訴法337条4号)。これは要するに裁判の打ち切りです。袴田さんの事件の真犯人に有罪判決を科すことはできないのです。 真犯人がいるのに時効で逃げられるというのは釈然としないかもしれませんが、公訴時効の趣旨は以下のようなものが合わさったものといわれています。 (a)被害者側の事情「時が経つことで、被害者を含む社会の処罰感情が薄れる」 (b)刑事裁判の事情「証拠が散逸することで、きちんとした裁判ができなくなる」 (c)犯人側の事情「一定の期間罪に問われず社会関係を築いており、それを尊重すべきである」 民事にも時効はありますが、上記の刑事に引き寄せて考えれば、以下のような整理ができると思います。 (A)請求する側の事情「権利の保全を怠った以上、保護されなくても仕方ない」 (B)民事裁判の事情「証拠が散逸することで、きちんとした裁判ができなくなる」 (C)請求される側の事情「長く続いた事実関係を尊重すべきである」 こうして比較してみると、公訴時効はいくつか検討すべきことがありそうです。 【公訴時効を廃止する方向】 (a)社会の処罰感情は薄れることがあるかもしれないが、被害者や遺族の処罰感情が薄れることは、特に重大な事件の場合にはほとんどないのではないか。民事は自分で権利を行使できるが、刑事は捜査機関に委ねなければいけないというのもある。 (c)罪を犯したのに、犯人側の「もう罪に問われなくて済む」といった期待を保護してよいのか。民事であれば、ずっとお金を請求されない、ずっと所有しているといった事実を保護してよい場合は多いが、刑事で保護されるのは真犯人である。 【公訴時効を残す方向】 (b)民事でも刑事でも証拠の散逸が問題になるが、刑事においてはDNA型鑑定など科学技術の発展によって散逸の問題が生じにくくなる面がある。ただ、刑事ではアリバイなどの証拠も散逸してしまい、冤罪の危険も増してしまう。有罪方向の証拠(現場から採取されたDNA型情報など)は残るが、無罪方向の証拠(別の場所にいたという目撃証言など)は残らない場合も多い。 以上のように、民事との比較も踏まえて検討すると、被害者や遺族の処罰感情と、被告人の防御をどう調整するかが主要な切り口ではないかと私は考えています。 なお、裁判所は集団予防接種事件などで事案によっては民事上の時効(除斥期間)を事実上無制限とする判決を出していますが、被告人の防御の問題は冤罪に直結しかねない以上、民事の判決を刑事にも援用していくことは難しいと思います。