「三つの文化を生きたからこそ」映画界の”アウトサイダー”アン・リーが描く東西文化のマリアージュ【世界文化賞】(後編)
ニューヨーク在住のまま、1991年に監督デビューしたアン・リーさんは、アメリカの多様性を目の当たりにしながら創作し続けた。その環境で生活してきた人だからこそ描ける優しいまなざしの作品の一つが『ブロークバック・マウンテン』である。 アメリカ中西部を主な舞台として、1963年から20年間にわたる、引かれ合う2人の男性の姿を描いた『ブロークバック・マウンテン』。公開当初は「ゲイ・カウボーイ・ムービー」と評され、特にアメリカでは成功するような映画とは捉えられていなかった。 ところが、アメリカ国内外で記録的な評価と興行収入をもたらし、世界三大映画祭の一つ、ヴェネツィア国際映画祭では最高賞の金獅子賞を、アカデミー賞では監督賞を射止めた。
父親からの無言の賛辞
その成功の理由をリーさんはこう語る。 リーさん: 『ブロークバック・マウンテン』は、ジャンルを超えた、純粋に美しい愛の物語です。カウボーイや詩的要素、西部劇といった枠を超え、深い感動を与えてくれる作品だと感じています。この映画の始まりは、前作『ハルク』(2003年)と『グリーン・デスティニー』(2000年)の製作で疲れ果てていた時期でした。それにも関わらず、映画の神様が私に再び愛をもって映画を作る機会を与えてくれたのです。 リーさん: 撮影期間は10週間で、まるでそよ風のように過ぎ去りました。ただただ美しいラブストーリーで、新鮮で成熟していて、西洋社会で長らく抑圧されていたゲイの存在を照らし出しています。 中国の武侠映画を世界に紹介した時と同じように、この映画もまた、映画が醸し出す文化的強みを世界に伝えたのではないでしょうか。 ――お父さまは『ブロークバック・マウンテン』の製作が決まる前に亡くなられました。話題作を次々に送り出す監督として、あなたのことをどう評価していましたか? リーさん: 私の父の世代の中では、父親は息子にとって風格の象徴でした。その世代からの最高の賛辞は、叱るべきことを見つけずに静かに見守ることです。父は私の映画について何も言いませんでした。それは私のことをとても誇りに思っている証拠だと思います。 父は、みんなが楽しむ映画が好きでしたが、その世代の中国人はエンターテイナーや映画監督というものに特別な感情は持っていないのです。映画好きの私を見て、父は映画で博士号を取って学者の道を進むことを望んでいたのかもしれません。でも結局のところ、父が何も言わないということは、彼なりの最大の褒め言葉だと思っています。 リーさん: エンターテイナーや映画監督は普通の生活をしていないと父の世代は思っています。実際のところ、長い間、私は退屈な普通の生活を送っていました。それでいいと思っていました。一方で、どれだけ多くのアジアの若者たちが私のところに来て、感謝の気持ちを表してくれたか分かりません。 「あなたのおかげで両親が映画の勉強を許してくれました。あなたは間違ったことをしていないからです」と言われます。ちょっと重荷になるような言葉ですね。映画製作において、時に過剰な表現で下品になることもありますが、上品に振る舞うことは父に認めてもらう一つの方法でした。父にもう聞くことはできませんが、この映画、『ブロークバック・マウンテン』には自信を持っています。