夫・源頼朝の浮気に怒り、愛人の屋敷を破壊!…「日本三大悪女」北条政子の〈強烈な嫉妬深さ〉の裏にあった「意外すぎる一面」
源頼朝の妻であり、「日本三大悪女」のひとりに数えられる北条政子。頼朝亡き後の鎌倉幕府を守るため、武士の先頭に立ち奮闘した彼女は、本当に「悪女」だったのでしょうか。本記事では、真山知幸氏の著書『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部を抜粋し、「わがまま女」の称号には収まらない、苛烈さと慈しみを兼ね備えた「尼将軍」・北条政子の人物像を解説します。
これまでの北条政子(1157~1225)といえば? 鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻、北条政子。その嫉妬深さと我の強さから、日野富子や淀殿と並んで「日本三大悪女」の一人とまで目されている。頼朝が浮気したときには怒りのあまり、愛人の家をぶっ壊したことは、今でも語り草だ。また、頼朝亡きあとは、長男の頼家(よりいえ)、そして次男の実朝(さねとも)と、我が子をたて続けに将軍にしながら、自身は「尼将軍」として政治力を発揮。激しい性格の持ち主で、公私にわたって自分の意見を突き通そうとした、わがまま女と見られている。
実は……信念と行動力を持って将軍や御家人のパイプ役となった
◆弱きを助ける強い妻として頼朝を支える 「やきもち焼きの性格である」 『大日本史(だいにほんし)』という文献で、はっきりそう書かれているのが、北条政子である。 政子は伊豆国(現在の静岡県)で、豪族の北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として生まれた。一方、「平治の乱」で平家に敗れた源頼朝は、命だけは助けられて14歳で伊豆国へ流される。やがて政子と頼朝は出会い、二人は時政の反対を押し切って恋愛結婚。政子が21歳、頼朝が31歳のときのことである。 仲が良い夫婦で子どもにも恵まれたが、頼朝がとても女性好きだったので、浮気をしては政子を怒らせた。頼朝が「亀の前」という女性と浮気したときには、政子は愛人がいる屋敷をぶち壊したという。 この激情こそが、政子が「日本三大悪女」の一人とされている理由の一つだが、そもそも怒らせる原因を作っているのは頼朝である。政子が「悪女」とまで責められる筋合いもないだろう。 強烈な性格ばかりが強調されがちな政子だが、御家人たちのよき相談相手になっていたようだ。また、困っている人には、御家人に限らず手を差しのべる。そんな優しさが政子にはあった。 例えば、頼朝が弟の義経を探しているときのことである。このとき、義経は頼朝が開いた鎌倉幕府と対立したまま、行方知れずとなっていた。 そんななか、義経と行動をともにした「静(しずか)」という女性を発見。尋問を行ったが、義経の居場所はわからずじまい。頼朝は大いに怪しんだが、静が妊娠していることもあり、それ以上、しつこく探らなかったという。 解放された静が京に帰る前、頼朝と政子は「舞を観たい」とリクエストした。静は舞が得意なことで知られていたからだ。静は「私のようなものが晴れの舞台に出るのは恥です」と一度断るものの、政子は得意な舞をやってもらうことで、静に気晴らしをしてもらいたかったのだろう。政子にうながされて、静は鶴岡八幡宮で舞を披露することとなった。 その舞は見事なものだった。だが、舞とともに披露された歌の内容が、頼朝の怒りを買うことになる。 「吉野山(よしのやま) 峰(みね)の白雪(しらゆき)ふみわけて 入(い)りにし人の 跡(あと)ぞ恋しき」(吉野山の白雪を踏み分けて山深くお入りになってしまった義経様が恋しい) 頼朝は「けしからん! 関東の平和を願うべき席で、裏切り者の義経を慕う歌とは何事だ!」と激怒。しかし、すかさず政子が夫に苦言を呈した。 「あなた、なんと情けない言いようですか。忘れたわけではございますまい。あなた様が伊豆にいらした流人のころを」 そう語りかけて、政子は頼朝に、自分たちが駆け落ち同然で結婚し、その後も一緒に暮らすまでには月日を要したことを思い出させた。 「あの時の私と、今の静と、心は同じでございます。純情な思いがあるからこそ、義経殿との月日を忘れることができないのではありませんか」 これを聞くと、頼朝も懐かしそうに過去を振り返って静のことを許し、舞に対する褒美を与えている。政子の思いやり深さがよくわかるエピソードだ。 ◆御家人を勇気づけた演説と梅干しおにぎり その後、最愛の頼朝を事故で亡くした政子。それからは、長男の頼家が第2代将軍に、次男の実朝が第3代将軍になる。ともに政子より先に命を落としてしまったが、生前は若い彼らに御家人を大切にすることや、上に立つ者の心がまえなどについて、ことあるごとに注意やアドバイスを与えている。御家人たちも何かと守ってくれる政子を頼もしく、ありがたい存在だと思っていたようだ。 その後も大切な存在に次々と先立たれるなかで、政子は鎌倉幕府を守るために、大いに奮闘する。 1221年、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が鎌倉幕府を打倒するべく兵を挙げて「承久の乱」(じょうきゅうのらん)を起こすと、政子は御家人を集め、こう切り出した。 「みなさん、心を一つにして聞いてください」そこから「頼朝様から受けた恩を今こそ返すときです!」と政子が訴えた演説は有名だ。まさに鬼気せまる勢いで政子はさらにこう断じている。 「もしこの中に朝廷側につこうという者がいるのなら、まずこの私を殺し、鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい」 ここまで言われれば、朝廷に心をゆさぶられていた御家人たちも、気が引きしまる。政子の言葉に感動した武士たちは、鎌倉幕府に味方することを決意。実に20万人以上の大軍が集まり、「承久の乱」を鎮圧している。 このとき、東国(鎌倉幕府側)の武士に兵糧として梅干し入りのおにぎりが配られた。 これを機に、梅干しは一気に広がったともいわれている。梅干しを入れた食べ物は腐りにくくなるため、長い従軍でもおにぎりを長持ちさせてくれる。御家人たちを我が子のように大事にした、政子ならではの気づかいだろう。 政子は御家人たちから「尼将軍」と呼ばれ、亡くなるまで鎌倉幕府を支え続けた。 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、名言収集家 1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年より独立。偉人や名言を研究するほか、名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などで講師活動も行う。『10分で世界が広がる15人の偉人のおはなし』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』『ヤバすぎる!偉人の勉強やり方図鑑』など著作は60冊以上。
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