フィリピン・ミンダナオ島 忘れ去られた内戦と避難民
グラウンド・ゼロ
マラウィ市は、内戦以前は商業都市として栄えていたそうだが、激戦区だったアグス川東側1キロ四方のエリアは、市民や報道機関の間で「グラウンド・ゼロ」と呼ばれ、かつての面影はなかった。建物に刻まれた数えきれない程の銃撃の跡、爆撃で抜け落ちた屋根――。建物の塗装は剥がれ落ち、灰色の廃墟だ。戦闘終結から10カ月がたったが、不発弾が残るため、いまだに政府により立ち入りが厳しく制限されているという。 「政府は、今年の7月からグラウンド・ゼロの復興を始めると言いながら、今の今まで一向に始める気配がない。こんな状態では、いつになっても避難民は帰れない。みんな怒っているよ」 後に取材に同行してくれた20歳代の男性NGOスタッフは不満を口にしていた。 ただ、グラウンド・ゼロ以外の地域に目を転ずると、市民生活は戻りつつあった。 幹線道路には、市民の足である「トライシクル」と呼ばれる三輪バイクや、米軍払い下げの古いジープを改造した乗合タクシー「ジプニー」が行き交い、朝と夕方の渋滞がひどい。道路脇の歩道を歩いていると、古い車特有の排気ガスが肺の中までまとわりつく感じで、何度もむせ返った。 商店やレストランは数多く営業し、買い物や食事をする人の姿もいたる所で目にした。学校帰りの小・中学生の楽しげな話し声も聞こえてくる。マニラでもよく見たフィリピン国内のどこにでもある日常の光景だった。 市民が戻り、復興が進みつつある市街地と徹底的に破壊され廃墟と化したグラウンドゼロ。どちらも同じマラウィ市だが、市内を流れるアグス川にかかる50メートル程の橋を渡るだけで、まるで違う国に来たかのように街の様子がガラッと変わってしまう。被害を受けた人たち、避難民として暮らす人たちは、日常生活を営む同じ市内の人たちをどのような思いで見ているのだろうか。
ファイサルさんとの再会
マラウィ市に通い始めて3日目、ようやく現地のNGOと連絡がつき、彼らが取材に同行してくれることになった。マラウィ市郊外の避難所を訪れ、避難民のインタビューや撮影を行った。一段落した頃、ふと背後から肩を叩かれた。 振り返ると、見覚えのある顔が目に入った。1年前にイリガン市の避難所で会ったファイサルさんだ。長時間取材に応じてくれた彼やその家族のことはずっと気がかりだったこともあり、すぐに分かった。思いがけない嬉しい再会に自然と笑顔になる。 ファイサルさんは、1年前に比べ、少しふくよかになっただろうか。悲壮感のあった表情は若干和らいでいる。思ったより元気そうだ。話を聞くと、内戦の終結後、イリガン市にあった避難所は閉鎖され、そこで暮らしていた人々は新たにマラウィ市郊外に建設されたこの避難所に移されたとのことだった。 「ここでは家族ごとにテントがあり、プライバシーが守られているので安心して暮らせる。イリガン市の避難所では、食事をしていても他人の目があって落ち着かなかった。時には、自分たちの食事を見て、『かわいそうだ』と言っている声が聞こえてきて恥ずかしい思いもした」 とはいえ、生活自体が良くなったわけではないようだ。 ファイサルさんがいる避難所のリーダーに話を聞くことができた。「NGOの支援で給水タンクが設置され、水の問題は解消されました。でも、政府などから家族ごとに米や缶詰が配給されるのですが、量も足りないし、品も偏っていて健康にも良くない。今私たちに必要なのは自活するための金銭的援助です。少しまとまったお金があれば、それを元手に食べ物や雑貨を売る店を始めることもできますから」 グラウンド・ゼロの復興が進まず、避難生活が長期化する中、生活再建支援の重要性が増しているようだ。