「定年」が「停年」だった時代を知っていますか? 日本人の強い老後不安の原因がわかった! ーー酒井順子
もともとは軍隊用語だった「停年」
停年はそもそも軍隊用語であったようだが、明治時代の後半、一部の大企業等に制度が導入されるようになり、その時の停年は55歳だった。 大正末期の経済誌によると、住友、三菱等の大会社が55歳の停年制を導入していた模様。とはいえまだ一般的ではなく、多くの企業では、特に停年を設けていなかった。 昭和になると、停年制度が広く普及するようになってくる。多くの企業では、停年は50歳か55歳に設定されていたようだ。 戦後には、55歳の停年が定着。しかし平均寿命が延びるにつれ、55歳の停年は若すぎる、という意見が多くなる。「停年」が「定年」と書き換えられつつあった1970年代以降、次第に定年年齢が延びていき、1985年(昭和60)には高年齢者雇用安定法により、60歳の定年が努力義務に。1994年(平成6)には法改正で、60歳定年を義務化する規定が設けられた(施行は1998年)。 2012年(平成24)にはさらに同法の改正が進み、事業主に対して、希望労働者全員の65歳までの継続雇用が義務化される(2013年より施行)。定年後の会社員は、給料が減るなどするものの、希望すれば65歳まで同じ会社で仕事を続けられることになった。 こうしてみると日本の定年年齢は、最初期からさほど延びていないのだった。明治期、日本人の平均寿命は40代前半だったのに、停年は55歳。定年年齢は、平均寿命を超えていた。 対して今、一般的な定年は60歳と、停年制度勃興期と比べて5歳しか延びていない。だというのに平均寿命は、その頃と比べて約40年もの延びを見せている。この差の大きさこそが、日本人に強い老後の不安をもたらす一つの要因である。 * 酒井順子『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)は、「老後資金」「定年クライシス」「人生百年」「一人暮らし」「移住」などさまざまな角度から、老後の不安や欲望を詰め込んだ「老い本」を鮮やかに読み解いていきます。 先人・達人は老境をいかに乗り切ったか?
酒井 順子